ビッド・アスク・スプレッド:取引の隠れたコスト

概論

株式や為替などの金融商品を取引する際、画面には常に二つの価格が表示されています。一つは、市場参加者がその資産を売ることができる最も高い価格である「ビッド(買値)」、もう一つは、買うことができる最も低い価格である「アスク(売値)」です。そして、この二つの価格の間には、常にわずかな差額が存在します。この差額こそが、ビッド・アスク・スプレッドです。

このスプレッドは、市場の「潤滑油」として機能するマーケットメーカーや専門家が、取引を仲介し、市場に流動性を提供する見返りとして得る収益の源泉です。投資家から見れば、資産を買う時は少し高いアスク価格で、売る時は少し安いビッド価格で取引せざるを得ません。したがって、ポジションを建ててすぐに決済した場合、このスプレッドの分だけ、確実に資産は目減りします。この意味で、ビッド・アスク・スプレッドは、売買手数料と並んで、取引における最も基本的かつ避けられないコストの一つなのです。

では、なぜこのスプレッドは存在するのでしょうか。市場マイクロストラクチャー理論は、その根源を主に三つの要素に分解して説明しています。第一に、注文を処理するための純粋なオペレーションコスト。第二に、マーケットメーカーが買いポジションや売りポジションの在庫を抱えることのリスク(在庫リスク) [1]。そして第三に、最も重要な要素である、情報の非対称性から生じるリスク(逆選択コスト)です。市場には、一般の投資家よりも優れた情報を持つ取引相手が存在する可能性があり、マーケットメーカーはそうした相手との取引で損失を被るリスクに常に晒されています。このリスクに対する保険料として、スプレッドが設定されるのです [2]。

長所・短所の解説、利益例・損失例の紹介

ビッド・アスク・スプレッドは、本質的には取引におけるコストであり、それ自体が直接的な利益を生むものではありません。しかし、その性質を深く理解し、分析することは、リターンを向上させる上で極めて重要な意味を持ちます。

スプレッドの理解がもたらす優位性

スプレッドの大きさを分析することの最大の長所は、それが市場の「非流動性」を測る直接的な指標となる点です。そして、この非流動性自体が、長期的なリターンの源泉となり得ることが、学術研究によって示されています。

アミフッドとメンデルソンによる画期的な研究は、ビッド・アスク・スプレッドが広い(=流動性が低い)株式ほど、その取引の難しさというリスクを引き受ける対価として、長期的に高いリターンを提供する傾向があることを明らかにしました [3]。この「非流動性プレミアム」は、現代の資産価格モデルにおいても重要なファクターの一つとして認識されています。スプレッドを単なるコストとして忌避するだけでなく、リスク・リターンの源泉として理解することは、新たな投資機会の発見につながるのです。

また、個々の銘柄のスプレッドだけでなく、市場全体のスプレッド(流動性)の動向を観察することも、市場のセンチメントを測る上で有用です。多くの銘柄のスプレッドが同時に拡大する現象は、市場全体のリスクが高まっていることを示唆します。実際、市場全体の流動性には共通の変動要因が存在することが示されており、これはマクロ経済の動向とも関連しています [4]。

リターンを蝕む避けられないコスト

ビッド・アスク・スプレッドの最も直接的な短所は、それが取引を行うすべての投資家のリターンを確実に蝕む、避けられないコストであるという点です。特に、売買を頻繁に繰り返す高頻度取引戦略にとって、スプレッドは死活問題となります。

ある著名な研究は、短期リバーサルやモメンタムといった、理論上は高いリターンを生むとされる投資戦略が、現実の取引コスト、特にビッド・アスク・スプレッドを考慮に入れると、その利益の大部分が消失してしまう可能性を指摘しました [5]。バックテスト上は魅力的に見える戦略も、スプレッドという「摩擦」の壁を乗り越えられなければ、現実世界では機能しないのです。

近年、アルゴリズム取引や高頻度取引(HFT)の台頭により、市場のスプレッドは歴史的に見て大幅に縮小しました。ある研究によれば、ニューヨーク証券取引所におけるアルゴリズム取引の導入は、スプレッドを縮小させ、市場の流動性を向上させる効果があったことが示されています [6]。しかし、それでもなおスプレッドがゼロになることはなく、取引コストの重要な構成要素であり続けていることに変わりはありません。

非対称性と摩擦の視点から

ビッド・アスク・スプレッドは、市場が完璧に滑らかで効率的ではないという現実から生まれる現象です。その本質は、当メディアの根幹をなす「非対称性」と「摩擦」の観点から解き明かすことができます。スプレッドは、市場に存在する摩擦そのものであり、その大きさは情報の非対称性によって決定づけられます。

Asymmetry:情報の非対称性がスプレッドを生む

ビッド・アスク・スプレッドが存在する最も根源的な理由は、市場参加者の間に存在する「情報の非対称性」です。マーケットメーカーは、取引の相手が自分よりも優れた情報を持っている可能性(アドバース・セレクション)に常に直面しています。もし、ある企業の内部情報を知るインサイダーが売りに来た場合、マーケットメーカーが通常の価格でそれを買い取れば、その後に株価が下落して損失を被ることは必至です。

この情報の非対称性というリスクから自身を守るため、マーケットメーカーは買い(ビッド)と売り(アスク)の価格に差を設けます。このスプレッドは、情報を持たない一般の投資家(ノイズトレーダー)との取引で得られる利益によって、情報を持つ投資家(インフォームドトレーダー)との取引で被る損失を相殺するための、いわば保険料なのです。したがって、市場における情報の非対称性が大きいほど、スプレッドは拡大する傾向にあります [2]。

Friction:リターンを蝕む市場の「摩擦」そのもの

ビッド・アスク・スプレッドは、市場に存在する様々な「摩擦」が凝縮されて現れた現象と言えます。それは、理論上の期待リターンと、実際に手にするリターンとの間に存在する、避けられないギャップの源泉です。

スプレッドを構成する要素は、それぞれが異なる種類の摩擦を表しています。 第一に、注文を処理し、取引システムを維持するための「オペレーションコストという物理的な摩擦」。 第二に、マーケットメーカーが流動性を提供するために、価格変動リスクのある資産の在庫を抱えなければならない「在庫リスクという摩擦」 [1]。 そして第三に、前述した「情報の非対称性という摩擦」です。

これらの摩擦の存在により、取引には必ずコストが発生します。特に、短期的な価格変動を捉えようとする高頻度の取引戦略にとって、スプレッドという摩擦は乗り越えるべき最大の障壁です。売買を繰り返すたびに、スプレッド分のコストがリターンから差し引かれ、わずかな利益は瞬く間に消し飛んでしまいます [5]。

スプレッドの大きさ、すなわち市場の非流動性は、単なるコスト(摩擦)であるだけでなく、それ自体がリスクファクターとなります。流動性が低い(スプレッドが広い)銘柄に投資することは、売買したい時にすぐに取引できないというリスクを引き受けることを意味します。そして、この摩擦を引き受けることへの対価として、市場は長期的に追加的なリターン(非流動性プレミアム)を提供すると考えられています [3]。

総括

  • ビッド・アスク・スプレッドは、買値(ビッド)と売値(アスク)の差額であり、取引における直接的かつ避けられないコストです。
  • その存在は、市場マイクロストラクチャー理論において、主に①注文処理コスト、②マーケットメーカーの在庫リスク [1]、③情報の非対称性(逆選択コスト)[2]の三つの要因によって説明されます。
  • スプレッドの大きさは市場の非流動性を示す重要な指標であり、スプレッドが広い(非流動性が高い)銘柄は、そのリスクの対価として長期的に高いリターンを提供する傾向があります(非流動性プレミアム)[3]。
  • スプレッドという摩擦は、特に高頻度の取引戦略の収益性を著しく悪化させる主要因であり、理論上の利益を現実には達成不可能にすることがあります [5]。
  • 近年のアルゴリズム取引の台頭は、全体としてスプレッドを縮小させる効果がありましたが [6]、スプレッドが市場の重要なコストであることに変わりはありません。

用語集

ビッド・アスク・スプレッド 金融商品の買値(ビッド)と売値(アスク)の差額のこと。市場に流動性を提供するマーケットメーカーの収益源であり、投資家にとっては取引コストとなる。

マーケットメーカー 特定の金融商品について常に売値と買値を提示し、投資家からの売買注文に応じることで、市場に流動性を供給する役割を担う市場参加者。

市場流動性 資産を、市場価格に大きな影響を与えることなく、どれだけ迅速に、大量に売買できるかの度合い。スプレッドが狭いほど、流動性は高いと見なされる。

情報の非対称性 市場参加者の間で、保有している情報に質や量の差がある状態。スプレッドが発生する根源的な理由とされる。

逆選択(アドバース・セレクション) 情報の非対称性が存在する市場で、情報を持たない側が、情報を持つ側にとって不利な取引を選択してしまう問題。マーケットメーカーは常にこのリスクに晒されている。

在庫リスク マーケットメーカーが、買い取った金融商品を在庫として保有する間に、その価格が下落してしまうリスク。

非流動性プレミアム 市場流動性が低い(取引しにくい)資産に投資するリスクを引き受けることへの対価として、投資家が要求する追加的なリターンのこと。

市場マイクロストラクチャー 市場参加者の行動や取引ルールが、どのように価格形成プロセスに影響を与えるかを研究する金融経済学の一分野。

アルゴリズム取引 あらかじめ定められたプログラムに基づき、コンピュータが自動的に売買注文のタイミングや数量を決定し、執行する取引。高頻度取引(HFT)はその一種。

約定 売買取引が成立すること。

参考文献一覧

[1] Stoll, H. R. (1978). The supply of dealer services in securities markets. The Journal of Finance, 33(4), 1133-1151.
https://doi.org/10.1111/j.1540-6261.1978.tb02053.x

[2] Glosten, L. R., & Milgrom, P. R. (1985). Bid, ask and transaction prices in a specialist market with heterogeneously informed traders. Journal of Financial Economics, 14(1), 71-100.
https://doi.org/10.1016/0304-405X(85)90044-3

[3] Amihud, Y., & Mendelson, H. (1986). Asset pricing and the bid-ask spread. Journal of Financial Economics, 17(2), 223-249.
https://doi.org/10.1016/0304-405X(86)90065-6

[4] Chordia, T., Roll, R., & Subrahmanyam, A. (2000). Commonality in liquidity. Journal of Financial Economics, 56(1), 3-28.
https://doi.org/10.1016/S0304-405X(99)00057-4

[5] Lesmond, D. A., Schill, M. J., & Zhou, C. (2004). The illusory nature of momentum profits. Journal of Financial Economics, 71(2), 349-380.
https://doi.org/10.1016/S0304-405X(03)00206-X

[6] Hendershott, T., Jones, C. M., & Menkveld, A. J. (2011). Does algorithmic trading improve liquidity?. The Journal of Finance, 66(1), 1-33.
https://doi.org/10.1111/j.1540-6261.2010.01624.x

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