スプレッドという言葉は、「広がり」や「差」を意味する一般的な単語ですが、投資や金融の世界では、極めて具体的かつ重要な「コスト」を指します。最も一般的に用いられるのは「ビッド・アスク・スプレッド(Bid-Ask Spread)」のことで、ある金融資産の「ビッド(買値)」と「アスク(売値)」の差額を指します。ビッドとは、市場で買い手が提示している最も高い価格のことであり、アスクとは、売り手が提示している最も低い価格のことです。あなたが株式などを買いたいと思った時、あなたはアスクの価格で買い、売りたいと思った時は、ビッドの価格で売ることになります。そして、アスクは常にビッドよりも高い価格に設定されています。この差額こそがスプレッドです。
スプレッドは、市場で取引を成立させる役割を担うマーケットメーカー(値付け業者)が得る収益の源泉であり、私たち投資家にとっては、取引を行う際に不可避的に支払わなければならない、最も基本的な取引コストです。仮に、ある株を買った直後に、価格が全く変動しないうちに売却したとしても、あなたの手元にはスプレッドの分だけ少ない金額しか残りません。この「見えざるコスト」は、一見すると単純な差額に過ぎませんが、その大きさや変動は、その市場の流動性、リスク、そして情報の非対称性といった、より深い経済的な実態を反映しています。著名な研究者であるリチャード・ロールは、取引価格の時系列データだけを用いて、この観測しにくいスプレッドを間接的に測定する独創的な手法を1984年に発表しました [1]。この記事では、スプレッドがなぜ存在するのか、その正体は何なのか、そして投資家がこのコストとどう向き合うべきかを、市場のミクロな構造を探る学術的研究を基に解説していきます。
スプレッドの構成要素:なぜ取引コストが発生するのか
スプレッドは、なぜ存在するのでしょうか。それは、マーケットメーカーが、流動性を供給するというサービスを提供する上で、いくつかのコストとリスクを負担しているからです。ハンス・ストールが1989年の論文で示した影響力のある枠組みによれば、スプレッドは主に三つの要素から構成されていると理解されています [2]。
注文処理コスト(Order Processing Costs)
これは、スプレッドの構成要素の中で最も分かりやすいものです。マーケットメーカーが取引を仲介し、執行するためには、様々な運営コストがかかります。これには、取引システムの維持費用、証券取引所への手数料、人件費、事務処理費用などが含まれます。いわば、ビジネスを運営するための基本的な経費であり、スプレッドの一部は、これらのコストを賄うために存在します。この要素は、比較的固定的で、取引の規模や技術の進歩によって変化します。
在庫保有コスト(Inventory Holding Costs)
マーケットメーカーは、投資家から買い注文が来た時にすぐに売れるように、また売り注文が来た時にすぐに買えるように、一定量の金融資産を「在庫」として保有しておく必要があります。しかし、この在庫を保有すること自体がリスクを伴います。もし、ある株式の在庫を保有している間に、市場全体が下落するような悪いニュースが出れば、その在庫の価値は減少してしまいます。在庫保有コストとは、このようにマーケットメーカーが在庫を抱えることによって生じる価格変動リスクを引き受けることへの補償です。このコストは、価格変動の激しい(ボラティリティの高い)資産ほど大きくなる傾向があります。
逆選択コスト(Adverse Selection Costs)
三つの要素の中で最も精妙で、かつ重要なのが、この逆選択コストです。これは、市場に参加するトレーダー間の「情報の非対称性」に起因します。市場には、企業の内部情報や高度な分析によって、その資産の将来価値について一般の投資家よりも優れた情報を持つ「インフォームド・トレーダー」が存在します。グロステンとミルグロムが1985年の画期的な論文で示したように、マーケットメーカーは常に、自分が取引する相手が、自分より多くの情報を持っているかもしれないというリスクに晒されています [3]。インフォームド・トレーダーは、株価が上がると確信している時にのみ買い注文を出し、下がると確信している時にのみ売り注文を出します。マーケットメーカーは、このような取引において、体系的に損失を被ることになります。このインフォームド・トレーダーとの取引で発生する損失を埋め合わせるために、マーケットメーカーは、取引相手が誰であろうと、全てのスプレッドを広めに設定します。つまり、逆選択コストとは、私たちのような一般の投資家(非インフォームド・トレーダー)が、インフォームド・トレーダーの存在によって間接的に支払わされている「保険料」のようなものなのです。
スプレッドから市場を読み解く
スプレッドは単なる取引コストではありません。それは、市場の状態を映し出す温度計のような役割を果たします。その大きさを観察することで、私たちはその金融資産が持つ様々な特性を推測することができます。
スプレッドの大きさが示すもの
一般的に、スプレッドが狭い(小さい)場合、それはその資産の「流動性」が高いことを示します。取引が活発で、多くの買い手と売り手が存在するため、マーケットメーカーは低いコストとリスクで取引を仲介できます。また、情報の非対称性が低く、インフォームド・トレーダーが少ないことも示唆します。例えば、TOPIXに採用されるような大型株は、通常スプレッドが非常に狭いです。 逆に、スプレッドが広い(大きい)場合、それは流動性が低いこと、価格変動リスクが高いこと、そして情報の非対称性が高く、逆選択のリスクが大きいことを意味します。例えば、取引量の少ない新興市場の小型株や、決算発表直前など、重要な情報が一部の投資家に漏れている可能性が懸念される状況では、スプレッドは拡大する傾向があります。
スプレッドの構成要素を推定する試み
スプレッドが三つの要素から構成されるという理論は、学術の世界でさらに発展しました。研究者たちは、実際の取引データから、観測されたスプレッドを、目には見えない「注文処理コスト」「在庫保有コスト」「逆選択コスト」の三つに分解する、精緻な統計モデルを開発しようと試みてきました。ストールの研究 [2] に始まり、ジョージ、カウル、ニマレンドランによる新たなアプローチ [4] や、ホアンとストールによるより一般的な手法 [5] など、数多くの研究が、この「スプレッドの分解」という難問に取り組んできました。これらの研究は、投資家が支払うコストの「質」を理解する上で、重要な洞察を与えてくれます。
スプレッドに潜む非対称性と摩擦
スプレッドという現象の根底には、当メディアが探求する「非対称性」と「摩擦」が深く横たわっています。これらを理解することは、市場の本質をより深く洞察することにつながります。
ポジティブファクター:非対称性(Asymmetry)
スプレッドを生み出す最も根源的な要因は、市場参加者の間に存在する「情報の非対称性」です [3]。インフォームド・トレーダーと非インフォームド・トレーダー、そして彼らの間で値付けを行うマーケットメーカーという三者の間には、情報という観点から明確な非対称性が存在します。スプレッドの逆選択コスト部分は、この情報の非対称性からマーケットメーカーが自身を守るための防衛策そのものです。投資家にとって、この非対称性の存在を認識することは、投資機会とリスクの源泉を見極める上で極めて重要です。例えば、特定のイベント(新薬の承認審査結果など)を前にしてスプレッドが異常に拡大している場合、それは市場が高度な情報の非対称性に晒されているシグナルかもしれません。このような状況で軽率に取引することは、情報を持つ側に一方的に利益を奪われるリスクを高めます。情報の非対称性を読み解く能力は、市場で生き残るための重要なスキルです。
ネガティブファクター:摩擦(Friction)
ビッド・アスク・スプレッドは、金融市場における最も根源的な「取引の摩擦」です。もし市場が完全に効率的で、取引に何のコストもかからない「無摩擦」の世界であれば、スプレッドはゼロになるはずです。しかし現実には、注文を処理し、在庫を管理し、情報の非対称性に対処するためのコストが存在します。これら全てが、円滑な取引を妨げる摩擦として機能します。特に、流動性の低い資産における広いスプレッドは、投資家がポートフォリオを機動的に変更することを困難にし、資産の最適な配分を阻害する大きな摩擦となります。高頻度取引を行うトレーダーにとって、この摩擦(スプレッド)をいかに克服するかは死活問題であり、彼らの戦略の多くは、この摩擦を最小化するか、あるいは他者の直面する摩擦から利益を得ることを目的としています。
スプレッドの知識を投資に活かすための具体的なアクション
スプレッドの正体を理解したら、次はその知識を実際の投資行動に反映させることが重要です。見えざるコストを管理し、不要な損失を避けるための具体的な方法を紹介します。
すぐできること
まず、取引を行う前には、必ず現在のビッドとアスクを確認し、スプレッドがどの程度開いているかをチェックする習慣をつけましょう。特に、普段取引しないような小型株、マイナーなETF、あるいは暗号資産などを取引する際には、予想以上にスプレッドが広い場合があるため注意が必要です。また、注文を出す際には、現在の価格で即座に約定させる「成行注文」ではなく、価格を指定する「指値注文」を活用することをお勧めします。これにより、意図せず不利な価格(広いスプレッド)で約定してしまうリスクを避けることができます。さらに、市場が開いた直後や取引終了間際、あるいは祝日前後など、市場参加者が少なく流動性が低下しがちな時間帯の取引は、スプレッドが広がりやすいため、可能な限り避けるのが賢明です。
長期的に取り組むこと
長期的なポートフォリオを構築する際には、構成資産の「流動性」、すなわちスプレッドの狭さを、重要な選定基準の一つに加えましょう。いくら将来性が有望に見えても、極端に流動性が低い資産ばかりでポートフォリオを組んでしまうと、将来的にリバランス(資産配分の調整)を行ったり、現金化したりする際に、高い取引コストに悩まされることになります。また、自身の投資スタイルとスプレッドの関係を理解することも重要です。取引頻度が高くなればなるほど、スプレッドとして支払うコストの総額は累積し、リターンを圧迫します。長期投資家にとって、スプレッドは一度支払えば済むコストですが、短期トレーダーにとっては、常に意識し、最小化を目指すべき継続的な経費なのです。
総括
この記事では、投資家が直面する最も基本的な取引コストである「ビッド・アスク・スプレッド」について、その正体と、それが示唆する市場の深層を解説しました。
- スプレッドとは、金融資産の買値(ビッド)と売値(アスク)の差額であり、投資家が支払う実質的な取引コストである。
- スプレッドは主に、「注文処理コスト」「在庫保有コスト」「逆選択コスト」という三つの要素から構成される。
- 特に逆選択コストは、市場における情報の非対称性を反映しており、スプレッドの大きさを決定する重要な要因である。
- スプレッドの広さは、その資産の流動性やリスクの大きさを示す指標となり、狭いほど流動性が高く、広いほど流動性が低いことを意味する。
- 投資家は、指値注文の活用や、流動性の低い時間帯の取引を避けることなどにより、スプレッドという「見えざるコスト」を管理することができる。
用語集
- ビッド・アスク・スプレッド: 金融市場において、ある資産の最も高い買い注文価格(ビッド)と、最も低い売り注文価格(アスク)の差額のこと。
- マーケットメーカー: 市場で常に売り気配と買い気配を提示し、投資家がいつでも取引できるように流動性を供給する役割を担う金融機関や個人のこと。
- 流動性: ある金融資産を、市場価格に大きな影響を与えることなく、いつでも容易に売買できる度合い。
- 逆選択(アドバース・セレクション): 情報の非対称性が原因で、情報を持たない側が、情報を持つ側にとって不利な取引を選択してしまう状況。スプレッドの文脈では、マーケットメーカーがインフォームド・トレーダーと取引してしまうリスクを指す。
- 注文処理コスト: 取引を執行し、決済するためにかかる運営上の費用。
- 在庫保有コスト: マーケットメーカーが在庫として金融資産を保有することに伴う価格変動リスクを負担するためのコスト。
参考文献一覧
[1] Roll, R. (1984). A Simple Implicit Measure of the Effective Bid-Ask Spread in an Efficient Market. The Journal of Finance.https://doi.org/10.1111/j.1540-6261.1984.tb03897.x
[2] Stoll, H. R. (1989). Inferring the Components of the Bid-Ask Spread: Theory and Empirical Tests. The Journal of Finance.https://doi.org/10.2307/2328278
[3] Glosten, L. R., & Milgrom, P. R. (1985). Bid, Ask and Transaction Prices in a Specialist Market with Heterogeneously Informed Traders. Journal of Financial Economics.https://doi.org/10.1016/0304-405X(85)90044-3
[4] George, T. J., Kaul, G., & Nimalendran, M. (1991). Estimation of the Bid-Ask Spread and Its Components: A New Approach. The Review of Financial Studies.https://doi.org/10.1093/rfs/4.4.623
[5] Huang, R. D., & Stoll, H. R. (1997). The Components of the Bid-Ask Spread: A General Approach. The Review of Financial Studies.https://www.jstor.org/stable/2962337


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