概論
市場のリスクを測る際、多くの投資家は過去の値動きの激しさ、すなわちヒストリカル・ボラティリティ(HV)に注目します。しかし、過去が未来を保証しない金融市場において、より重要なのは「これから先、市場がどれだけ変動すると予想されているか」です。この未来の変動予測を、市場価格そのものから逆算して導き出した指標が、インプライド・ボラティリティ(Implied Volatility, IV)です。
インプライド・ボラティリティは、現実のオプション市場で取引されているオプションの価格(プレミアム)を、ブラック=ショールズ・モデルに代表される理論的なオプション価格計算式に代入し、逆算することで求められる「将来の変動率(ボラティリティ)」の予測値です [1]。言い換えれば、現在のオプション価格は、市場参加者が将来のボラティリティをどの程度と見込んでいるかを織り込んで形成されている、という考えに基づいています。したがって、インプライド・ボラティリティは、市場参加者の総意として形成された、未来の価格変動に対するコンセンサス予測と解釈することができます。
この「未来の予測」という性質から、インプライド・ボラティリティはしばしば「恐怖指数」とも呼ばれます。特に、米国のS&P500種株価指数を対象とするオプション価格から算出されるVIX指数は、市場参加者の将来に対する不安心理を反映する代表的なインプライド・ボラティリティ指数として、世界中の投資家から注目されています [2]。
長所・短所の解説、利益例・損失例の紹介
長所:未来を映す鏡としての有用性
インプライド・ボラティリティの最大の強みは、その「将来予測性」にあります。過去のデータに依存するヒストリカル・ボラティリティとは異なり、IVは市場の将来に対する期待を直接反映しています。
学術的な実証研究においても、インプライド・ボラティリティは、過去のボラティリティよりも、将来の実現ボラティリティ(実際に起こった値動きの激しさ)を予測する上で、より効率的で偏りのない情報を含んでいることが示されています [3]。これは、IVが単なる気休めの指標ではなく、統計的にも未来を予測する上で優れた能力を持つことを意味します。この性質により、IVは、決算発表や重要な経済指標の発表といった、将来の特定イベントに対する市場の警戒度を測るための貴重なツールとなります。
さらに、インプライド・ボラティリティの特性は、収益機会の源泉にもなり得ます。歴史的に、インプライド・ボラティリティは、その後に実現したボラティリティを平均的に上回る傾向があることが多くの研究で示されています。この差は「ボラティリティ・リスク・プレミアム」と呼ばれ、オプションの売り手が、将来の価格変動リスクを引き受けることへの対価(保険料)と解釈されます。このプレミアムの存在は、デルタヘッジを行ったオプションの売り戦略が、統計的に見てプラスのリターンを生み出してきたことの背景にあるとされています [4]。
短所:歪んだ鏡としての限界
その有用性にもかかわらず、インプライド・ボラティリティは決して完璧な未来予測のツールではなく、その解釈にはいくつかの重要な注意点が存在します。IVは、いわば「歪んだ鏡」であり、市場の姿をありのままに映し出すわけではありません。
最も根源的な問題は、IVがブラック=ショールズ・モデルという、いくつかの非現実的な仮定(例:株価リターンが正規分布に従う、ボラティリティが常に一定であるなど)に基づいている点です [1]。もしこのモデルが完璧に正しければ、同じ原資産を対象とする全てのオプション(権利行使価格や満期が異なるもの)は、全て同じIVを持つはずです。
しかし、現実の市場では、権利行使価格が異なるオプションは、それぞれ異なるIVを持つという現象、すなわち「ボラティリティ・スマイル(あるいはスキュー)」が恒常的に観測されています。特に、1987年のブラックマンデー以降、株価指数オプション市場では、アウト・オブ・ザ・マネーのプットオプション(暴落時に利益が出る)のIVが、他のオプションに比べて体系的に高くなる「ボラティリティ・スキュー」が定着しました [5]。これは、市場参加者が理論モデルが想定する以上に、将来の株価暴落を警戒していることの強力な証拠であり、IVの背景にあるモデルの不完全性を浮き彫りにしています。
このボラティリティ・リスク・プレミアムの存在は、オプションの売り戦略が平均的には利益を生むことを示唆しますが、それは同時に、売り手が壊滅的な損失を被る「テールリスク」を引き受けていることの裏返しでもあります。市場が平穏な時期にはプレミアムをコツコツと稼ぐことができますが、ひとたび金融危機のような激動が訪れ、実現ボラティリティがIVを爆発的に上回った際には、オプションの売り手は青天井の損失を被る危険性があるのです。
非対称性と摩擦の視点から
インプライド・ボラティリティ(IV)は、市場の非対称性を映し出し、そして理論と現実の間の摩擦から生まれる、極めて興味深い指標です。その本質は、当メディアの根幹をなす「非対称性」と「摩擦」の観点から解き明かすことができます。
Asymmetry:市場の恐怖を映し出す非対称な微笑
インプライド・ボラティリティが示す最も重要な知見は、市場参加者のリスク認識が本質的に「非対称」であるという事実です。もしブラック=ショールズ・モデル [1]の仮定が正しく、市場が将来のアップサイドとダウンサイドのリスクを均等に評価しているならば、全てのオプションのIVは同じ値になるはずです。
しかし、現実の市場、特に株価指数オプション市場で観測されるのは、アウト・オブ・ザ・マネーのプットオプション(下落時に価値を持つ)のIVが、コールオプション(上昇時に価値を持つ)のIVよりも体系的に高くなる「ボラティリティ・スキュー」です [5]。これは、市場参加者が、理論モデルが想定する以上に、緩やかな上昇よりも突発的な暴落を強く恐れていることの現れです。この「恐怖の非対称性」が、IVのカーブを歪ませ、市場の真の心理状態を映し出しているのです。
この非対称性は、ボラティリティ・リスク・プレミアム [4]の存在そのものにも繋がります。投資家は、非対称な損失リスク(株価の暴落)を回避するために、保険としてオプションを購入し、その対価としてプレミアムを支払うことを厭いません。このため、オプションの価格に織り込まれたIVは、平均的にはその後に実現するボラティリティよりも高くなる傾向があるのです。
Friction:不完全なモデルという根源的な摩擦
インプライド・ボラティリティは、自然界に存在する物理量ではなく、あくまで「モデル」というレンズを通して市場価格を覗き込んだ時に現れる、人工的な指標です。ここに、IVを理解する上で不可欠な「摩擦」が存在します。
最も根源的な摩擦は、「モデルの不完全性」です。IVは、ブラック=ショールズ・モデルという、多くの非現実的な仮定(例:ボラティリティが一定、リターンが正規分布に従うなど)の上に成り立つ理論モデルを、現実の市場価格に無理やり当てはめることで算出されます [1]。ボラティリティ・スマイルやスキュー [5]といった現象は、この理論と現実の間に存在するギャップ、すなわち「モデルの摩擦」が原因で発生します。IVとは、この摩擦を吸収するために、モデル内の一つのパラメータ(ボラティリティ)を無理に調整した結果得られる、いわば「帳尻合わせの数字」なのです。
また、オプション市場には、ビッド・アスク・スプレッドという直接的な「取引摩擦」が存在します。ボラティリティ・リスク・プレミアムを利用して利益を上げようとする戦略は、この取引摩擦を乗り越えなければなりません。特に、オプションの売りポジションのリスクを管理するために頻繁なデルタヘッジを行う場合、その都度発生する取引コストが、理論上の利益を大きく蝕むことになります。
総括
- インプライド・ボラティリティ(IV)は、オプション価格から逆算される、市場が予測する将来のボラティリティです [1]。VIX指数は、その最も有名な指標です [2]。
- IVは過去のデータに依存するヒストリカル・ボラティリティよりも、将来の実現ボラティリティを予測する上で優れた情報を持つことが示されています [3]。
- 歴史的に、IVは実現ボラティリティを上回る傾向があり、この差は「ボラティリティ・リスク・プレミアム」と呼ばれ、オプションの売り戦略における収益の源泉とされています [4]。
- IVの最大の限界は、その算出基盤であるブラック=ショールズ・モデルの不完全性にあります。この「モデルの摩擦」は、権利行使価格によってIVが異なる「ボラティリティ・スマイル/スキュー」という現象を生み出します [5]。
- 特に株価指数オプションに見られるボラティリティ・スキューは、市場参加者が将来の上昇よりも暴落を強く警戒しているという、「恐怖の非対称性」を反映しています。
用語集
インプライド・ボラティリティ (Implied Volatility, IV) オプションの市場価格を基に、オプション価格モデル(ブラック=ショールズ・モデルなど)を用いて逆算された、将来の予想変動率。
ヒストリカル・ボラティリティ (Historical Volatility, HV) 過去の一定期間の価格データから算出された、実績ベースの変動率。IVとは対照的に、過去の情報のみを用いる。
オプション 特定の資産(原資産)を、将来の特定の期日までに、あらかじめ決められた価格(権利行使価格)で「買う権利(コール)」または「売る権利(プット)」のこと。
ブラック=ショールズ・モデル オプションの理論価格を計算するための数学的なモデル。インプライド・ボラティリティは、このモデルを逆算することで求められる。
VIX指数 米国のS&P500種株価指数を対象とするオプション価格から算出されるインプライド・ボラティリティ指数。市場の不安心理を示す指標として「恐怖指数」の別名を持つ。
ボラティリティ・スマイル/スキュー 横軸に権利行使価格、縦軸にインプライド・ボラティリティを取った際に、グラフが笑顔(スマイル)や片側に歪んだ(スキュー)形になる現象。モデルの不完全性を示す。
ボラティリティ・リスク・プレミアム インプライド・ボラティリティが、その後に実現した実現ボラティリティを平均的に上回る差のこと。オプションの売り手が受け取るリスクの対価。
権利行使価格 オプションの買い手が、原資産を売買する権利を行使できる価格。
アウト・オブ・ザ・マネー (Out-of-the-Money, OTM) オプション取引において、現時点で権利を行使すると損失が出る状態のこと。例えば、プットオプションでは、原資産価格が権利行使価格よりも高い状態を指す。
デルタヘッジ オプションの売りポジションなどから生じる価格変動リスクを、原資産を売買することで相殺(ヘッジ)する手法。
参考文献一覧
[1] Black, F., & Scholes, M. (1973). The pricing of options and corporate liabilities. Journal of Political Economy, 81(3), 637-654.
https://www.jstor.org/stable/1831029
[2] Whaley, R. E. (2000). The investor fear gauge. The Journal of Portfolio Management, 26(3), 12-17.
https://doi.org/10.3905/jpm.2000.319728
[3] Christensen, B. J., & Prabhala, N. R. (1998). The relation between implied and realized volatility. Journal of Financial Economics, 50(2), 125-150.
https://doi.org/10.1016/S0304-405X(98)00034-8
[4] Bakshi, G., & Kapadia, N. (2003). Delta-hedged gains and the negative market volatility risk premium. The Review of Financial Studies, 16(2), 527-566.
https://doi.org/10.1093/rfs/hhg002
[5] Rubinstein, M. (1994). Implied binomial trees. The Journal of Finance, 49(3), 771-818.
https://doi.org/10.1111/j.1540-6261.1994.tb00079.x
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