概論
金融市場は、常に同じ表情を見せているわけではありません。穏やかな上昇が続く「強気相場」と、ボラティリティが高まり価格が下落する「弱気相場」では、リターンの平均や変動の大きさ、さらには資産クラス間の相関といった、市場のあらゆる統計的性質が根本的に異なります。このように、市場の振る舞いが質的に異なる状態のことを「レジーム」と呼びます。
この観測不可能な市場の「状態(レジーム)」を、データから統計的に推定しようと試みるのが、レジームチェンジ・モデルです。この分野で最も基礎的かつ影響力のあるモデルが、ジェームズ・ハミルトンが1989年に発表した論文によって広く知られるようになった、マルコフ・スイッチング・モデルです [1]。
このモデルの核心的なアイデアは、経済の時系列データが、その振る舞いが離散的にシフトする、複数の観測不可能な状態(レジーム)の間を確率的に移行(スイッチ)していると仮定する点にあります [1]。例えば、市場には「低ボラティリティ・レジーム」と「高ボラティリティ・レジーム」という二つの状態が存在し、データに基づいて、今現在どちらのレジームにいる確率が高いのか、そしてレジーム間でどのような確率で移行するのかを推定します。
このアプローチは、金融の分野、特に資産配分戦略において大きな注目を集めてきました。なぜなら、レジームによって資産間の相関や期待リターンが大きく変化することが、数多くの研究で示されているからです。例えば、国際的な株式市場のリターンを分析した研究では、強気と弱気のレジームが存在することが確認されています [2]。レジームチェンジ・モデルは、このような市場の状態変化を捉え、それに応じて投資戦略を動的に調整するための、強力な理論的基盤を提供するのです [3]。
長所・短所の解説、利益例・損失例の紹介
長所、強み、有用な点について
レジームチェンジ・モデルは、市場の非線形なダイナミクスを捉えることで、伝統的な線形モデルの限界を超える可能性を秘めています。
より現実に即した市場のモデリング
市場の振る舞いが常に一定であると仮定するシングル・ステート・モデルとは異なり、レジームチェンジ・モデルは市場が複数の異なる状態を持つという、より直感的で現実に即した描写を可能にします。これにより、市場の構造変化をモデルに内生的に組み込むことができます。
収益事例1:レジームを考慮した資産配分
市場のレジームを考慮することが、実際に投資家のポートフォリオのパフォーマンスを改善する可能性が、学術研究によって示されています。GuidolinとTimmermannによる2008年の研究では、国際資産配分において、市場の強気・弱気レジームの存在を考慮することで、米国投資家の最適なポートフォリオが大きく変化することを発見しました [4]。具体的には、レジームの存在や、投資家がリターン分布の歪みといったリスクを考慮に入れると、最適なポートフォリオにおける米国株の保有比率が大幅に増加する、という結果が得られています [4]。これは、モデルがより現実に即した最適な投資判断を示唆することを示しています。
収益事例2:より高度なモデルへの発展
レジームチェンジ・モデルは、より複雑な市場の性質を捉えるために、さらに発展を続けています。GuoとChingによる2020年の研究では、金融市場が持つ長期記憶性(long memory property)を考慮するために、伝統的なマルコフ・スイッチング・モデルを拡張した「高次」モデルを提案しました [5]。このモデルは、キャピタルゲイン税といった、より現実的な取引コストも考慮に入れており、シミュレーションと実データを用いた実験を通じて、その有効性と実用性(effectiveness and practicability)が検証されています [5]。
短所、弱み、リスクについて
その洗練されたアプローチの裏で、レジームチェンジ・モデルは、その特定と推定のプロセスに、いくつかの深刻な統計的・実践的な課題を抱えています。
モデルの特定に関する恣意性
レジームチェンジ・モデルを構築する上で最も難しい問題の一つが、「市場にいくつのレジームが存在するのか」という問いに、客観的な答えがないことです。2つのレジームを仮定するのか、3つ、あるいは4つのレジームを仮定するのかは、分析者が決定する必要があり、この選択によってモデルの結果は大きく変わってしまいます [3]。
失敗(損失)事例:モデルの誤特定によるリスク
レジームチェンジ・モデルに基づく戦略が失敗する典型的なパターンは、モデルが市場の状態を正しく捉えられないことです。これは、モデルの構造が、分析対象とする市場の特性と合っていない場合に起こり得ます。例えば、GuoとChingの研究が示唆するように、もし市場に長期記憶性という性質がある場合、それを考慮しない伝統的な(一階の)マルコフ・スイッチング・モデルでは、市場の状態変化を十分に描写できない可能性があります [5]。このように、不適切なモデルを適用してしまうことは、市場の状態を誤認し、結果として大きな損失に繋がるリスクをはらんでいるのです。
非対称性と摩擦の視点から
レジームチェンジ・モデルがなぜ有効性を持ち得るのか、そしてなぜその扱いに細心の注意を要するのかは、「非対称性」と「摩擦」の観点から深く理解することができます。
Asymmetry:市場の非対称な振る舞いを捉える
伝統的な線形モデルの多くは、市場の振る舞いが時間を通じて一定(対称)であることを暗黙のうちに仮定しています。しかし、現実の市場は明らかに非対称です。強気相場と弱気相場では、リターンの平均もボラティリティも全く異なります。特に、資産間の相関は、市場がパニックに陥る高ボラティリティのレジームにおいて、非対称に高まる傾向があります [2]。
レジームチェンジ・モデルの最大の強みは、この市場の本質的な非対称性を、モデルの構造そのものに組み込んでいる点にあります。市場には複数の状態が存在し、それぞれの状態(レジーム)で経済のルールが異なるという前提に立つことで、ボラティリティの急増や相関の構造変化といった、非対称な市場のダイナミクスをより正確に捉えようと試みるのです。この非対称な現実を直視し、モデル化することこそが、収益機会の源泉となり得ます。
Friction:理想の検知を阻む「観測」と「推定」の摩擦
もし市場のレジームが誰の目にも明らかな形で切り替わるならば、それに対応することは容易でしょう。しかし、現実には、レジームの特定と利用を困難にする、根源的な「摩擦」が存在します。
「観測不可能」という情報の摩擦
最大の摩擦は、市場のレジームが、直接観測することが不可能であるという事実です。我々にできるのは、過去のデータから、現在の市場がどのレジームにいるかを「確率的」に推定することだけです。この推定には常に誤差が伴い、モデルが現在の状態を誤認するリスクは常に存在します。また、過去には観測されなかった、全く新しい未知のレジームが出現する可能性もあります。この「真の状態は知り得ない」という根源的な情報の摩擦が、このモデルの有効性に常に影を落とします。
「モデル特定」という技術的摩擦
モデルを構築する際に、いくつのレジームを仮定するのか、どのパラメータがレジームによって変化するのか、といった設定は分析者に委ねられています。このモデルの構造を決定するプロセス(モデル特定)には、客観的な正解がなく、一種の「アート」に近い側面があります [3]。この技術的な摩擦が、モデルの信頼性や再現性を損なう可能性を生み出し、分析者によって全く異なる結論が導き出される原因となるのです。
総括
- レジームチェンジ・モデルとは、市場が複数の異なる状態(レジーム)を持ち、その状態間を確率的に移行するという考えに基づき、市場の構造変化を捉えようとする統計モデルです [1]。
- その強みは、市場の振る舞いが状態によって異なるという、より現実に即した非線形な描写を可能にする点にあります [2, 3]。
- レジームを考慮した動的な資産配分戦略は、静的な戦略と比較して、投資家のポートフォリオのパフォーマンスを改善する可能性が示されています [4]。
- より高度な「高次」マルコフ・スイッチング・モデルも開発されており、その有効性と実用性が検証されています [5]。
- 一方で、レジームは直接観測できず、また、モデルの構造決定に恣意性が伴うなど、その応用には多くの技術的な「摩擦」が存在します。
用語集
レジーム (Regime) 市場の統計的性質(平均リターン、ボラティリティ、相関など)が、ある期間において安定している特定の「状態」のこと。
レジームチェンジ・モデル (Regime Change Model) 市場が複数の異なるレジーム間を確率的に移行(スイッチ)すると仮定し、その変化をモデル化する統計的手法。
マルコフ・スイッチング・モデル (Markov Switching Model) レジームチェンジ・モデルの代表格。現在のレジームが、直前のレジームの状態のみに依存して確率的に決まる(マルコフ性)と仮定する。
非定常性 (Non-stationarity) 時系列データの統計的な性質(平均や分散など)が、時間と共に変化する性質。レジームチェンジは、非定常性の一種と見なせる。
ボラティリティ (Volatility) 資産価格の変動の激しさを測る指標。一般的に、標準偏差で測定され、リスクの大きさを示す代表的な尺度として用いられる。
相関 (Correlation) 二つの異なる資産価格が、どの程度同じ方向に動くかを示す統計的な指標。
戦術的アセットアロケーション (Tactical Asset Allocation) 長期的な資産配分(戦略的アセットアロケーション)を基本としつつ、短期的な市場予測に基づいて、資産配分比率を機動的に変更する投資戦略。
モデル特定 (Model Specification) 統計モデルを構築する際に、変数の関係性やパラメータの数など、モデルの具体的な構造を決定すること。
歪度 (スキュー) と 尖度 (カートシス) リターン分布の非対称性(歪み)と、分布の裾の重さ(尖り具合)を示す統計量。レジームによってこれらの値も変化することがある。
非線形 (Non-linear) 入力と出力の関係が、単純な比例関係(直線)で表せない、より複雑な関係性のこと。レジームチェンジは、市場の非線形な振る舞いを捉えるための一つのアプローチ。
参考文献一覧
[1] Hamilton, J. D. (1989). A new approach to the economic analysis of nonstationary time series and the business cycle. Econometrica: Journal of the econometric society, 357-384.
https://doi.org/10.2307/1912559
[2] Ang, A., & Bekaert, G. (2002). International asset allocation with regime shifts. The Review of Financial Studies, 15(4), 1137-1187.
https://doi.org/10.1093/rfs/15.4.1137
[3] Frühwirth-Schnatter, S. (2006). Finite mixture and Markov switching models. Springer Science & Business Media.
https://doi.org/10.1016/S0304-4076(98)00010-4
[4] Guidolin, M., & Timmermann, A. (2008). International asset allocation under regime switching, skew, and kurtosis preferences. The Review of Financial Studies, 21(2), 889-935.
https://www.jstor.org/stable/40056838
[5] Guo, S., & Ching, W. K. (2020). High-order Markov-switching portfolio selection with capital gain tax. Expert Systems with Applications, 160, 113915.
https://doi.org/10.1016/j.eswa.2020.113915
本サイト/本記事は、著者個人の見解、経験、学習・研究内容に基づいた情報提供を目的としています。特定の銘柄や投資手法の推奨を目的としたものではなく、また、金融商品取引法に基づく投資助言サービスではありません。
投資には元本割れを含む様々なリスクがあります。価格変動、金利変動、為替変動、発行者の信用状況などにより、損失が生じる可能性があります。
本サイト/本記事で提供される情報を利用した投資判断や取引によって生じたいかなる損害についても、筆者および運営者は一切の責任を負いません。
投資に関する最終的な決定は、ご自身の判断と責任において行って(あるいは行わないで)ください。
コメント