概論
「市場は効率的であり、公開された情報は瞬時に株価に織り込まれる」――これは、現代ファイナンス理論の根幹をなす効率的市場仮説(EMH)の基本的な考え方です。この仮説が正しければ、企業の決算発表のような重要なニュースが出た瞬間、株価は即座に新しい適正価格へとジャンプし、その後はランダムに動くはずです。
しかし、現実の市場は、この理論通りには動いていませんでした。学術研究が明らかにした、EMHに対する最も古く、そして最も頑健な「反証」の一つが、Post-Earnings Announcement Drift(PEAD)、日本語では「決算発表後の株価ドリフト」として知られるアノマリーです。
PEADとは、企業の決算発表が市場の事前予想を上回る(あるいは下回る)ポジティブ(ネガティブ)・サプライズであった場合、その株価は発表直後だけでなく、その後数週から数ヶ月にわたって、サプライズと同じ方向に「じわじわと(drift)」動き続ける傾向がある、という現象を指します。
この不可解な「株価反応の遅れ」を最初に報告したのは、レイ・ボールとフィリップ・ブラウンによる1968年の歴史的な論文です [1]。彼らは、会計上の利益情報が株価に有用であることを示した最初の研究の一つであり、その中で、市場が利益サプライズの情報を完全に織り込むまでに、かなりの時間がかかることを発見しました。
この現象を「PEAD」として体系的に分析し、学術界にその存在を決定づけたのが、ビクター・バーナードとジェイコブ・トーマスによる1989年の論文です [2]。彼らは、このアノマリーが単なるリスクプレミアムでは説明が困難なほど強力であり、市場参加者が決算情報の持つ意味を完全には理解しきれず、体系的に「反応が遅れている(underreaction)」ことによって引き起こされている可能性が高いと結論付けました。
このPEADアノマリーの存在は、効率的市場仮説の父であるユージン・ファーマ自身が、後に「(EMHにとって)最大の恥」と認めるほど、金融学における重大な謎として、半世紀以上にわたり研究され続けているのです [3]。
長短の解説と損益の事例紹介
長所、強み、有用な点について:市場の「反応の遅れ」を利用する
PEADは、市場の非効率性を利用しようとする投資家にとって、最も信頼性の高いシグナルの一つと考えられてきました。
収益事例:歴史的に確認されたリターン
PEADを利用した戦略が示す理論上のリターンは、非常に強力です。バーナードとトーマスの1989年の研究では、1974年から1986年の期間において、利益サプライズが最も大きかった銘柄群を買い、最も小さかった銘柄群を売るロング・ショート戦略を組んだ場合、決算発表後の60取引日(約3ヶ月間)で平均4.4%の超過リターンが得られたことが示されています [2]。これは、リスクを考慮してもなお、統計的に極めて有意なリターンでした。
考えられる源泉1:投資家の限定された注意力
なぜ市場は、これほどまでに反応が遅いのでしょうか。その最も有力な説明の一つが、投資家の限定された注意力(limited investor attention)です。
デイビッド・ハーシュライファーらの2009年の研究は、この仮説を巧みに検証しました [4]。彼らは、同じ日に多くの企業が決算発表を行うような「ニュースが多い日」と、そうでない「ニュースが少ない日」とで、PEADの強さがどう変わるかを比較しました。その結果、投資家の注意が他のニュースに分散されがちな「ニュースが多い日」に決算発表を行った企業の方が、PEADがより強く、長く続くことを発見しました。これは、投資家が情報の洪水の中で、個々の決算ニュースの重要性を十分に処理しきれないために、反応の遅れが生じるということを直接的に示しています。
考えられる源泉2:投資家の洗練度の差
市場参加者の全員が、同じように反応が遅いわけではありません。イーライ・バートフらの2000年の研究は、機関投資家の保有比率とPEADの関係を調査しました [5]。その結果、プロの投資家である機関投資家の保有比率が高い企業では、PEADが弱い傾向にあることが示されました。このことは、洗練された投資家はPEADの存在を理解し、それを利益機会として取引(裁定取引)している一方で、個人投資家のような、より洗練されていない投資家の反応の遅れが、アノマリー全体の存続に寄与している可能性を示唆しています。
短所、弱み、リスクについて:取引コストと減衰の可能性
取引コストと流動性の問題
PEADを利用した戦略が直面する現実的な問題の一つが、取引コストです。特に、この効果がより顕著に現れるとされる小型株や、流動性の低い銘柄においては、その傾向が強くなります。
コーディアらの2009年の研究は、PEADと株式の流動性の関係を分析し、流動性が低い銘柄ほど、ドリフトが強く、長く続くことを発見しました [6]。これは、一見すると収益機会が大きいことを意味しますが、裏を返せば、そのような銘柄は取引コスト(売買スプレッドやマーケットインパクト)が非常に高いため、理論上の利益を現実に得ることが困難である可能性を示唆しています。裁定取引が非効率な(摩擦の大きい)市場でこそ、アノマリーは生き残りやすいのです。
アノマリーの減衰
PEADは、最も古くから知られるアノマリーの一つであるため、その存在はヘッジファンドなどのプロの投資家の間では常識となっています。そのため、過去数十年の間に、多くの資金がこのアノマリーを利用する戦略に流入したと考えられます。その結果、バーナードとトーマスが1980年代に報告したほどの強力なリターンは、今日では得られにくくなっている、すなわちアノマリーが減衰している可能性は十分に考慮する必要があります。
非対称性と摩擦の視点
なぜ、決算という明確な情報が、市場に瞬時に織り込まれず、「じわじわと動く」のでしょうか。その本質を、当メディアの根幹をなす「非対称性」と「摩擦」の観点から解き明かすことができます。
Asymmetry:情報の「解読能力」の非対称性
PEADの根源には、単なる情報の有無ではなく、その情報の「解読能力」における非対称性が存在します。
企業の決算報告書は、理論上は誰でも平等にアクセスできる公開情報です。しかし、その報告書に記載された数字の裏にある真の意味、すなわち、今回の利益サプライズが将来の収益性にどれだけ持続的な影響を与えるのかを、全ての市場参加者が同じレベルで理解できるわけではありません。
洗練された投資家(アナリストや機関投資家)は、会計の細部を読み解き、サプライズの「質」を評価する能力を持っています。一方で、多くの個人投資家は、ヘッドラインの数字(EPSなど)だけに注目しがちです。この投資家の洗練度の差、すなわち「情報の解読能力」の非対称性が、反応の速度差を生み出します [5]。洗練された投資家が情報の真の価値を理解し、取引を始める一方で、市場の大多数がその意味を理解し追随するまでには時間がかかり、その結果として株価の緩やかなドリフトが発生するのです。
Friction:「注意力」と「取引コスト」という二重の摩擦
この情報の非対称性に加えて、PEADの存続を許しているのが、人間の認知能力の限界と、市場の物理的な制約という、二重の「摩擦」です。
限定された注意力という認知的摩擦
人間が一度に処理できる情報量には限りがあります。この「限定された注意力」は、市場が情報を効率的に処理する上での、極めて強力な認知的摩擦として機能します。
ハーシュライファーらの研究が示したように、他に大きなニュースがある日には、投資家の注意は分散され、個々の決算情報の重要性を見過ごしてしまいます [4]。効率的市場仮説が前提とするような、常に全ての情報を監視し、合理的に評価する「スーパーコンピューター」のような投資家像は現実的ではありません。この認知的な処理能力の限界という摩擦が、市場に「反応の遅れ」という非効率性を生み出し、PEADが存続する土壌を提供しているのです。
取引コストと流動性という物理的摩擦
PEADを利用した裁定取引を困難にしている、もう一つの重要な摩擦が取引コストと流動性です。
コーディアらの研究が明らかにしたように、PEADは流動性が低い銘柄でより強く観測されます [6]。これは、裁定取引者にとってジレンマを生み出します。最も収益機会が大きいのは、取引量が少なく、売買スプレッドが広く、自らの注文が株価を大きく動かしてしまう(マーケットインパクトが大きい)銘柄なのです。
この「取引コストの高さ」という物理的な摩擦が、裁定取引を躊躇させ、あるいは不採算なものにします。その結果、たとえ価格の歪みが存在していても、誰もそれを完全には是正することができず、アノマリーが市場に残り続けるのです。
総括
・PEADとは、企業の利益サプライズに対して、市場の株価反応が遅れ、発表後も数ヶ月にわたって同じ方向に株価が動き続けるという、最も頑健なアノマリーの一つです [1, 2]。
・この現象の主な原因は、投資家が情報の重要性をすぐには理解できない「アンダーリアクション(反応の遅れ)」であり、特に他のニュースが多い日には、投資家の「限定された注意力」によってこの傾向が強まります [4]。
・洗練された機関投資家は、このアノマリーを一部修正する方向に取引しますが [5]、個人投資家などの反応の遅れが、アノマリー全体の存続に寄与していると考えられます。
・PEADは、流動性の低い銘柄でより強く観測されるため、その裁定取引は高い取引コストという「摩擦」に直面し、理論上の利益を現実に得ることが困難な場合があります [6]。
用語集
Post-Earnings Announcement Drift (PEAD) 決算発表後に、利益サプライズの方向に、株価が数ヶ月かけて緩やかに動き続ける現象。「決算発表後の株価ドリフト」と訳される。
効率的市場仮説 (EMH) 市場価格は利用可能な全ての情報を即座に織り込んでいるため、継続的に市場を上回ることはできないとする理論。PEADは、この理論に対する強力な反証とされる。
アノマリー 現代ファイナンス理論の常識では説明できないが、市場で経験的に観測されるリターンの規則性。
利益サプライズ (Earnings Surprise) 企業が発表した決算(特に一株当たり利益、EPS)が、アナリストなどによる市場の事前予想をどれだけ上回ったか(または下回ったか)を示す指標。
アンダーリアクション (Underreaction) 投資家が、新しい情報に対して、その情報が持つ本来の価値を十分に織り込まず、不完全にしか反応しないこと。「反応の遅れ」とも言う。
限定された注意力 (Limited Attention) 人間が一度に処理できる情報量や、注意を向けられる対象には限界があるという、行動経済学における概念。
機関投資家 個人投資家から集めた多額の資金を運用する法人投資家のこと。投資信託、年金基金、生命保険会社などが含まれる。
裁定取引 (Arbitrage) 同一の価値を持つ資産間で価格差が生じた際に、割安な方を買い、割高な方を売ることで、リスクなく利益を得ようとする取引。価格の歪みを是正する力となる。
流動性 (Liquidity) 資産を、市場価格に大きな影響を与えることなく、どれだけ迅速に、大量に売買できるかの度合い。
取引コスト 金融商品を売買する際に発生する費用の総称。売買手数料、スプレッド、マーケットインパクトなどが含まれる。
参考文献一覧
[1] Ball, R., & Brown, P. (1968). An empirical evaluation of accounting income numbers. Journal of Accounting Research, 6(2), 159-178.
https://doi.org/10.2307/2490232
[2] Bernard, V. L., & Thomas, J. K. (1989). Post-earnings-announcement drift: Delayed price response or risk premium?. Journal of Accounting Research, 27, 1-36.
https://doi.org/10.2307/2491062
[3] Fama, E. F. (1998). Market efficiency, long-term returns, and behavioral finance. Journal of Financial Economics, 49(3), 283-306.
https://doi.org/10.1016/S0304-405X(98)00026-9
[4] Hirshleifer, D., Lim, S. S., & Teoh, S. H. (2009). Driven to distraction: Extraneous events and underreaction to earnings news. The Journal of Finance, 64(5), 2289-2325.
https://doi.org/10.1111/j.1540-6261.2009.01501.x
[5] Bartov, E., Krinsky, I., & Radhakrishnan, S. (2000). Investor sophistication and patterns in stock returns after earnings announcements. The Accounting Review, 75(1), 43-63.
https://doi.org/10.2308/accr.2000.75.1.43
[6] Chordia, T., Goyal, A., Sadka, G., Sadka, R., & Shivakumar, L. (2009). Liquidity and the post-earnings-announcement drift. Financial Analysts Journal, 65(4), 18-32.
https://doi.org/10.2469/faj.v65.n4.3
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