概論
人間のトレーダーが取引所のフロアで大声を張り上げていた時代から、金融市場はテクノロジーと共に劇的な進化を遂げてきました。その進化の最先端に位置するのが、高頻度取引(High-Frequency Trading, HFT)です。HFTとは、高度なコンピュータ・アルゴリズムを用いて、マイクロ秒(100万分の1秒)やナノ秒(10億分の1秒)といった人間の認識を遥かに超える速度で、膨大な数の金融取引を自動的に実行するトレーディングの一形態を指します。
HFTを特徴づけるのは、その圧倒的な「スピード」だけではありません。取引所に物理的にサーバーを近接させる「コロケーション」によって通信遅延(レイテンシー)を極限まで削減し、一日に何百万もの注文とキャンセルを繰り返すことで、極めて短期間の価格変動から利益を積み重ねます。その戦略は、伝統的なマーケットメイキング(市場への流動性供給)から、異なる市場間のわずかな価格差を狙う裁定取引、統計的な価格パターンを捉えるものまで多岐にわたります [1]。
2000年代後半から急速に台頭したHFTは、今や世界の主要な株式市場において取引量の大きな割合を占める存在となりました。しかし、その影響については、市場参加者や研究者の間で見解が大きく分かれています。HFTは市場の流動性を高め、取引コストを削減する「効率化のエンジン」なのか。それとも、市場の不安定性を増大させ、一般の投資家を食い物にする「電子的な捕食者」なのか。この激しい論争こそが、HFTを理解する上で最も重要な視点と言えるでしょう。
長所・短所の解説、利益例・損失例の紹介
長所:市場効率化のエンジンか
HFTを肯定的に評価する研究は、主にその「市場品質の向上」という側面に焦点を当てています。HFTが新たな時代のマーケットメーカーとして機能することで、一般の投資家が享受できる恩恵があるという主張です。
最も重要な貢献として挙げられるのが、市場流動性の向上と取引コストの低下です。ある著名な研究によれば、アルゴリズム取引(その多くがHFT)の導入は、ビッド・アスク・スプレッドを有意に縮小させたことが示されています [2]。スプレッドの縮小は、投資家が支払う実質的な取引コストが低下したことを意味し、これは市場全体の効率性が高まったことの直接的な証拠と見なされます。
また、HFTは価格発見のプロセス、すなわち新しい情報が市場価格に迅速に反映されるプロセスを促進する役割も担っているとされています。HFTは、その高度な情報処理能力と高速な取引執行能力によって、価格の歪みを瞬時に修正する裁定取引を行います。ある実証研究では、HFTの活動が活発であるほど、価格発見がより効率的に行われることが示されており、市場の健全な機能に貢献している可能性が指摘されています [3]。
短所:市場を脅かす捕食者か
一方で、HFTに対する批判や懸念も根強く存在します。その最たるものが、市場のシステミックリスクを高めるのではないかという懸念であり、その象徴的な事例が2010年5月6日に発生した「フラッシュ・クラッシュ」です。
この日、米国株式市場は、わずか数分間でダウ平均が約1,000ドルも暴落し、その後すぐに値を戻すという不可解な現象に見舞われました。後の米国商品先物取引委員会(CFTC)による詳細な分析報告によれば、HFTがこの暴落を直接引き起こしたわけではないものの、危機的な状況下でHFTが一斉に流動性の供給を停止、あるいは攻撃的な売り手に回ったことが、価格の急落を増幅させる一因となったことが示されています [4]。
さらに、HFTの本質が、ミリ秒単位のスピードを巡る、社会的には非生産的な「軍拡競争」にあるという批判も存在します。ある理論研究は、HFT業者間の競争が、他者よりわずかに早く情報を得て、古い気配値を狙い撃ちする「スナイピング」というレントシーキング(超過利潤の追求)行為を助長していると指摘しました [5]。このような競争は、市場全体のパイを増やすのではなく、巨額の技術投資を通じて、市場のパイを他の参加者から奪い合うだけのゼロサムゲームに陥っている可能性があり、その過程で市場の脆弱性を高めていると懸念されているのです。
非対称性と摩擦の視点から
高頻度取引(HFT)をめぐる激しい論争は、その存在が市場の「非対称性」と「摩擦」をどのように変化させたかに集約されます。HFTは、既存の摩擦を破壊する一方で、新たな非対称性と摩擦を生み出すという二面性を持っています。
Asymmetry:スピードという絶対的な非対称性
HFTの本質は、「スピードの非対称性」にあります。HFT業者は、コロケーションや最先端の通信技術に巨額の投資を行うことで、他の市場参加者よりもマイクロ秒単位で早く市場の情報を受け取り、注文を出すことができます。これは、単なる少しの優位性ではなく、他の参加者が反応する前に市場の状況を認識し、行動できるという決定的な非対称性です。
このスピードの非対称性は、新たな「情報の非対称性」を生み出します。HFTは、一般の投資家が見ている気配値が更新されるよりも早く、リミットオーダーブックの微細な変化を捉えることができます。この情報アドバンテージを利用して、他の投資家の注文動向を予測し、先回りするような取引戦略を実行することが可能になります。このミリ秒単位の競争は、市場を「スピード」という新たな軸で階層化し、HFTとそれ以外の投資家との間に深い情報格差を生み出しているのです [5]。
Friction:摩擦との終わりなき戦い
HFTは、市場に存在する伝統的な「摩擦」と戦い、それを収益源とすることで成立しています。
HFTがもたらした最大の功績は、マーケットメーカー間の熾烈な競争を通じて、ビッド・アスク・スプレッドという最も基本的な「取引摩擦」を大幅に削減したことです [2]。HFT業者は、極めて薄い利鞘を狙って膨大な数の取引を行うため、スプレッドは歴史的な低水準にまで圧縮されました。この点において、HFTは市場の取引コストという摩擦を破壊し、効率性を高めたと言えます。
しかし、HFT自身もまた、究極の物理的摩擦、すなわち「光の速さ」と「距離」との戦いに直面しています。取引所までの物理的な距離が数メートル違うだけで、ナノ秒単位の遅延(レイテンシー)が発生し、競争優位性が失われます。HFT業者間の「軍拡競争」は、このレイテンシーという物理的摩擦を克服するための終わりなき戦いなのです [5]。
一方で、HFTは市場に新たな摩擦を生み出したとも指摘されています。その一つが、「幻の流動性(Phantom Liquidity)」の問題です。HFTが提示する大量の気配値は、市場に潤沢な流動性があるかのような印象を与えますが、市場がストレスに晒された途端、アルゴリズムが一斉に注文を引き揚げ、流動性が瞬時に蒸発することがあります。2010年のフラッシュ・クラッシュは、この新たな摩擦が市場の安定性をいかに脅かすかを浮き彫りにしました [4]。必要な時に消えてしまう流動性は、市場参加者にとって新たなリスク、すなわち摩擦の源泉となるのです。
総括
- 高頻度取引(HFT)は、マイクロ秒単位のスピードで取引を実行するアルゴリズム取引の一形態であり、現代の株式市場における取引量の大きな割合を占めています [1]。
- 長所として、HFTはマーケットメーカーとして機能し、ビッド・アスク・スプレッドを縮小させることで市場の流動性を高め [2]、価格発見のプロセスを促進する [3]といった、市場品質を向上させる側面が実証研究によって示されています。
- 短所として、2010年のフラッシュ・クラッシュで観測されたように、市場のストレス時に流動性を引き揚げることで価格の暴落を増幅させる可能性があり [4]、システミックリスクへの懸念が指摘されています。
- HFT業者間の競争は、ミリ秒単位のスピードを巡る社会的に非生産的な「軍拡競争」に陥っているとの批判もあります [5]。
- HFTは、スピードという絶対的な「非対称性」を利用するビジネスモデルであり、伝統的な取引摩擦を破壊する一方で、流動性が突如消失するといった新たな摩擦を生み出す、諸刃の剣と言える存在です。
用語集
高頻度取引 (High-Frequency Trading, HFT) 高度なコンピュータ・アルゴリズムを用い、マイクロ秒やナノ秒といった極めて高速なスピードで、膨大な数の注文とキャンセルを繰り返す取引手法。
アルゴリズム取引 あらかじめ定められたプログラムに基づき、コンピュータが自動的に売買注文のタイミングや数量を決定し、執行する取引の総称。HFTはその一部。
コロケーション 取引所のマッチングエンジンが設置されているデータセンター内に、自身のサーバーを物理的に設置すること。通信距離を最短にすることで、通信遅延(レイテンシー)を極限まで削減する。
レイテンシー 通信の遅延時間のこと。HFTの世界では、この遅延をマイクロ秒単位で短縮することが、競争優位に直結する。
マーケットメイキング 特定の金融商品について常に売値(アスク)と買値(ビッド)を提示し、投資家からの売買注文に応じることで、市場に流動性を供給する行為。
価格発見 新しい情報が市場に伝わり、それが取引を通じて資産価格に反映されていくプロセス。
フラッシュ・クラッシュ 2010年5月6日に発生した、米国株式市場がわずか数分間で異常な暴落と急回復を経験した現象。HFTのリスクが広く議論されるきっかけとなった。
ビッド・アスク・スプレッド 金融商品の買値(ビッド)と売値(アスク)の差額。HFTの登場により、主要な市場ではこのスプレッドが大幅に縮小した。
システミックリスク ある金融機関や市場の一部で発生した問題が、ドミノ倒しのように金融システム全体に波及していくリスク。
リミットオーダーブック (板) 指値注文(リミットオーダー)が価格順に並んだ一覧表のこと。HFTは、この板情報を高速で処理・分析する。
参考文献一覧
[1] Goldstein, M. A., Kumar, P., & Graves, F. C. (2014). Computerized and high-frequency trading. The Financial Review, 49(2), 177-202.
http://dx.doi.org/10.2139/ssrn.2379842
[2] Hendershott, T., Jones, C. M., & Menkveld, A. J. (2011). Does algorithmic trading improve liquidity?. The Journal of Finance, 66(1), 1-33.
https://doi.org/10.1111/j.1540-6261.2010.01624.x
[3] Brogaard, J., Hendershott, T., & Riordan, R. (2014). High-frequency trading and price discovery. The Review of Financial Studies, 27(8), 2267-2306.
https://www.jstor.org/stable/24465658
[4] Kirilenko, A. A., Kyle, A. S., Samadi, M., & Tuzun, T. (2017). The flash crash: The impact of high-frequency trading on an extreme market event. The Journal of Finance, 72(3), 967-1012.
https://www.jstor.org/stable/26652722
[5] Budish, E., Cramton, P., & Shim, J. (2015). The high-frequency trading arms race: Frequent batch auctions as a market design response. The Quarterly Journal of Economics, 130(4), 1547-1621.
https://doi.org/10.1093/qje/qjv027
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