概論
橋を設計するエンジニアは、平均的な交通量だけでなく、観測史上最大の地震や暴風雨といった、極端な負荷(ストレス)に耐えられるかをシミュレーションします。金融の世界におけるストレステストも、これと全く同じ思想に基づいています。平時の市場環境で機能するリスクモデルだけでなく、「万が一」の事態が発生した際に、自らのポートフォリオがどれだけの損失を被り、それに耐えうるのかを評価するための、極めて重要なリスク管理手法です。
ストレステストとは、過去に実際に発生した金融危機(リーマン・ショックなど)や、将来起こりうる深刻な、しかしあり得なくはない仮想のシナリオ(特定の国のデフォルト、地政学的紛争の勃発など)を設定し、その極端な市場環境が自身のポートフォリオに与える影響を分析するシミュレーションを指します。
このアプローチは、Value at Risk (VaR)のような確率論的なリスクモデルとは対照的な位置にあります。VaRが「信頼水準99%の範囲内で最大損失額はいくらか」という確率的な問いに答えるのに対し、ストレステストは「もしリーマン・ショックが明日もう一度起きたら、具体的にいくら失うのか」という、より直接的で具体的な問いに答えます。
ストレステストの重要性が広く認識されるようになったのは、2008年の世界金融危機が大きなきっかけでした。この危機では、VaRをはじめとする多くの伝統的なリスクモデルが、テールリスクを適切に評価できずに機能不全に陥りました。この反省から、金融機関の健全性を測るための監督手法として、規制当局主導のストレステストが導入され、現在では銀行のリスク管理において中心的な役割を担っています [1]。
長所・短所の解説、利益例・損失例の紹介
長所、強み、有用な点について
ストレステストの最大の強みは、VaRなどが捉えきれない「テールリスク」を具体的かつ直感的に可視化できる点にあります。確率論的なモデルが示す抽象的な数値とは異なり、「リーマン・ショック級の危機で資産が40%減少する」といった具体的なシナリオは、投資家や経営層がリスクの深刻さを実感し、事前に対策を講じるための強力な動機付けとなります。
この手法は、ポートフォリオに潜む脆弱性を暴き出す上でも非常に有効です。平常時には無相関に見える資産同士が、危機的状況下では一斉に同じ方向に動くという、相関の非線形な変化を捉えることができます。VaRモデルの前提が崩壊するような市場環境を意図的に作り出すことで、モデルが見落としていた未知のリスク要因や、特定の資産への集中の危険性を明らかにすることができるのです [2]。
また、ストレステストは単一の決まった手法ではなく、様々な形で応用が可能です。過去のイベントを再現するだけでなく、特定のパラメータ(金利、為替レートなど)だけを大きく動かす感応度分析や、起こりうると考えられる「もっともらしい(plausible)」シナリオの領域をまず定義し、その中で最悪のポートフォリオ損失をもたらすシナリオを体系的に探索するという、より高度なアプローチも存在します [3]。
短所、弱み、リスクについて
その有用性にもかかわらず、ストレステストは決して万能ではなく、その設計と解釈にはいくつかの根源的な弱点が存在します。
最も根本的な問題は、シナリオ選択の「主観性」です。ストレステストの結果は、どのようなシナリオを選ぶかに完全に依存します。過去の危機をシナリオとして用いることは、「バックミラーを見ながら運転する」ようなものであり、未来に起こる全く新しい形の危機を見逃す危険性があります。一方で、仮想のシナリオを作成するとしても、その内容は分析者の想像力や経験に縛られてしまい、真に「想定外」の事態を捉えることは極めて困難です。
この手法は、そのシナリオが発生する「確率」については何も教えてくれません。例えば、「特定の大規模紛争シナリオでは資産が50%失われる」という結果が出たとしても、そのシナリオが明日起こるのか、100年後まで起こらないのかが分からなければ、具体的な対策の優先順位を決めることは難しいでしょう。
さらに、特に規制当局が金融機関に対して行うストレステストは、その結果の公表が市場に意図せぬ影響を与える可能性も指摘されています。ストレステストの結果が、各金融機関のポートフォリオに関する情報を市場に部分的に開示することになり、それが投資家の行動を変化させ、市場の不安定性をかえって増大させる可能性も理論的には考えられるのです [4]。結局のところ、ストレステストは、2008年の金融危機で露呈したようなリスク管理の失敗から多くの教訓を与えてくれましたが [5]、それ自体が新たな課題を生む可能性もはらんでいるのです。
非対称性と摩擦の視点から
ストレステストは、正規分布のような対称的な世界を前提とするリスクモデルの限界から生まれました。その本質は、市場に内在する「非対称性」を直視し、理論と現実の間に存在する「摩擦」を乗り越えようとする試みそのものにあります。
Asymmetry:危機が暴く非対称な世界
金融市場におけるリターン分布は、本質的に非対称です。平穏な市場では緩やかに上昇する一方で、危機的状況下では突如として暴落するという、左側に長い裾野(テール)を持つ性質があります。ストレステストは、まさにこの「利益と損失の非対称性」を捉えるために設計されたツールです。VaRが「起こりやすい99%」の対称的な世界に焦点を当てるのに対し、ストレステストは「起こりにくいが破滅的な1%」の非対称な世界を直視します。
この非対称性は、資産間の相関関係にも現れます。平常時には分散効果をもたらしてくれる低い相関が、市場がストレスに晒された途端、一斉に同じ方向に動くという現象は、多くの金融危機で観測されてきました。ストレステストは、このような「相関の非対称性」を意図的にシミュレーションすることで、分散が機能しなくなる最悪の事態にポートフォリオがどう反応するかを明らかにします。
Friction:完璧な未来予測を阻む数々の摩擦
もし未来を完璧に予測できるなら、ストレステストは不要です。しかし、我々の予測能力は、様々な「摩擦」によって制限されています。
最も根源的な摩擦は、人間の「認知的摩擦」です。ストレステストの有効性はシナリオの質に依存しますが、人間は自らの経験や知識に縛られ、真に「想定外」の未来を想像することが極めて困難です。結果として、過去の危機をなぞるようなシナリオばかりを作成してしまい、「最後の戦争(the last war)に備える」という過ちに陥りがちです。この想像力の限界という摩擦が、ストレステストの有効性に常に影を落とします [1]。
また、シナリオを実際の損失額に変換する過程にも「モデルの摩擦」が存在します。例えば、「GDPが5%低下する」というシナリオが、保有する株式ポートフォリオに具体的に何%の損失をもたらすかを計算するには、やはり何らかの計量モデルが必要です。このモデル自体が不完全であったり、過去のデータに基づいている限り、その出力にも誤差が生じます。シナリオは定性的でも、その影響評価は定量的なモデルに依存するという構造的な摩擦です [2]。リスク管理の失敗は、危機時に発生する「突然の非流動性やフィードバック効果」といった現象をモデルが捉えきれないことからも生じます [5]。
最後に、ストレステストの設計と実行には、高度な専門知識と計算資源を要します。この「実行コストという摩擦」は、特に個人投資家や小規模な組織にとって、精緻なストレステストの導入を妨げる大きな障壁となります。
総括
- ストレステストは、特定の極端なシナリオ下でポートフォリオがどれだけの損失を被るかをシミュレーションするリスク管理手法です。
- 2008年の金融危機以降、VaRのような確率論的モデルの弱点を補うものとして、特に金融規制の分野でその重要性が増しました [1, 5]。
- 長所は、テールリスクを具体的かつ直感的に可視化し、危機的状況下で発生する隠れた脆弱性を明らかにできる点です [2]。
- 短所は、どのシナリオを選択するかに結果が大きく依存するという「主観性」であり、「過去の危機」に備えるだけで未来の新たな危機を見逃すリスクを常に内包しています。
- もっともらしい領域の中から最悪のシナリオを体系的に探索する、といった高度な手法も存在しますが [3]、その有効性は、人間の想像力の限界という「認知的摩擦」や、シナリオの影響を評価する際の「モデルの摩擦」によって制限されます。
用語集
ストレステスト ポートフォリオや金融機関が、深刻だが起こりうる極端な市場環境(ストレス・シナリオ)に対して、どれだけの耐性を持っているかを評価するためのシミュレーション。
シナリオ分析 将来起こりうる特定の出来事(シナリオ)を想定し、それがもたらす影響を分析する手法。ストレステストはその一種。
テールリスク 確率分布の裾野(テール)で発生する、発生確率は極めて低いが、一度発生すると壊滅的な損失をもたらすリスク。
Value at Risk (VaR) バリュー・アット・リスク。特定の保有期間と信頼水準のもとで、資産やポートフォリオが被る可能性のある最大損失額。テールリスクの大きさまでは測定できない。
リバース・ストレステスト まず許容できないほどの巨大な損失額を定義し、次にその損失を引き起こす可能性のあるシナリオは何かを逆算して特定する手法。
相関 二つの異なる資産の値動きの連動性のこと。危機的状況下では、多くの資産の相関が上昇する傾向がある。
ドローダウン 特定の期間において、資産価値が過去の最高値からどれだけ下落したかを示す下落率。
バーゼル合意 国際的に活動する銀行の自己資本比率などに関する国際的な基準。金融危機後、ストレステステストの重要性が強調された。
感応度分析 金利や為替レートといった、特定の市場パラメータ(リスクファクター)だけを一つずつ変化させ、ポートフォリオ価値への影響を測定する手法。
CCAR (Comprehensive Capital Analysis and Review) 米国で導入されている、大手金融機関に対する包括的資本分析およびレビュー。FRBが実施する厳格なストレステストを中核とする。
参考文献一覧
[1] Schuermann, T. (2014). Stress testing banks. International Journal of Forecasting, 30(3), 717-728.
https://doi.org/10.1016/j.ijforecast.2013.10.003
[2] Berkowitz, J. (2000). A coherent framework for stress-testing. The Journal of Risk, 2(2), 5-15.
https://doi.org/10.21314/JOR.2000.021
[3] Breuer, T., Jandacka, M., Rheinberger, K., & Summer, M. (2008). How to find plausible, severe and useful stress scenarios (OENB Working Paper No. 146). Oesterreichische Nationalbank.
※ステーブルリンクなし
[4] Goldstein, I., & Leitner, Y. (2018). Stress tests and information disclosure. Journal of Economic Theory, 177, 34-69.
https://doi.org/10.1016/j.jet.2018.05.013
[5] Stulz, R. M. (2008). Risk management failures: What are they and when do they happen?. Journal of Applied Corporate Finance, 20(4), 43-54.
https://doi.org/10.1111/j.1745-6622.2008.00202.x
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