ナラティブの伝染モデル:経済的アイデアはウイルスのように広まる

概論

「住宅価格は決して下がらない」「ビットコインは新しい金(ゴールド)だ」「AIが世界を変える」――。ある時期、市場を支配する特定のアイデアや信念は、どこからともなく現れ、まるでウイルスのように人々の心に「感染」し、社会全体を巻き込む大きな流行となります。そして、その流行が、経済や市場に熱狂的なバブルや、深刻な不況をもたらすことがあります。

なぜ、特定の経済的な物語(ナラティブ)は、これほどまでに強力な伝染力を持つのでしょうか。この問いに、伝統的な経済学とは全く異なる、疫学(Epidemiology)の知見を用いて答えようとするのが、ノーベル経済学賞受賞者ロバート・シラーが提唱するナラティブ経済学の中核的なアプローチです [1]。

シラーは、経済的ナラティブの流行を、インフルエンザやウイルスの感染拡大と同じように、数理モデルで分析できると考えました。そのために彼が注目したのが、疫学研究における最も古典的で、基本的なモデルであるSIRモデルです。

SIRモデルは、カーマックとマッケンドリックによって1927年に発表された、感染症の流行を記述するための数学的な枠組みです [2]。このモデルは、人口を以下の3つのグループに分類し、その間の人数の変化を追跡します。

  • S (Susceptible, 感受性保持者):まだナラティブに「感染」しておらず、感染する可能性のある人々。
  • I (Infected, 感染者):ナラティブに「感染」し、それを他者に広めている(伝染力を持つ)人々。
  • R (Recovered, 回復者):かつては感染していたが、そのナラティブを忘れたり、信じなくなったりして、もはや伝染力も感受性も持たない人々。

このモデルを用いることで、「あるナラティブの基本的な伝染率」や「人々がそのナラティブを忘れるまでの期間」といったパラメータが、経済的な流行の規模や期間、そしてその盛衰のパターンをどのように決定するかを、シミュレーションすることが可能になります。


長短の解説、利益例・損失例の紹介

長所、強み、有用な点について:ナラティブの流行をモデル化する

ナラティブの伝染を、疫学やその他の数理モデルで捉えるアプローチは、経済や市場のダイナミクスを理解するための、新しい強力なレンズを提供します。

流行のメカニズムの解明

SIRモデルは、ナラティブの流行を直感的に理解するための、シンプルで強力な枠組みを提供します。例えば、基本的な伝染率が回復率を上回らない限り、ナラティブの流行は起こらない、といった重要な示唆を与えてくれます [1, 2]。

もちろん、ナラティブの伝染メカニズムは、単純なウイルス感染だけではありません。アビジット・バナジーが1992年に示した情報カスケードのモデルは、人々が他者の行動を見て、合理的に追随していく過程で、アイデアが広まっていく様子を描写しています [3]。また、ガベイシュらの2003年の研究は、市場の暴落を、少数の大規模な投資家の行動が引き金となって連鎖反応が起こる、一種の「カスケード」としてモデル化しています [4]。これらの多様なモデルが、伝染現象を多角的に分析することを可能にします。

短所、弱み、リスクについて:伝染が引き起こす市場の歪み(損失事例)

物語の伝染は、市場に深刻な価格の歪みをもたらし、その物語を信じた投資家に、しばしば手痛い損失をもたらします。

損失事例:単純なナラティブの力

市場は、必ずしも複雑で精緻な情報に基づいて動くわけではありません。時には、極めて単純なナラティブが、巨大な価格変動を引き起こすことがあります。

アンドレ・シュライファーによる1986年の研究は、その代表例です [5]。彼は、ある銘柄がS&P500のような主要な株価指数に採用されるという、単純なニュース(「この株は重要銘柄の仲間入りをした」というナラティブ)が、その企業のファンダメンタルズに何の変化もなくても、株価を恒久的に押し上げる効果があることを実証しました。これは、インデックスファンドのような、特定のルールに従って機械的に売買を行う多数の投資家が、この単純なナラティブに「感染」し、一斉に買い需要を発生させるためです。

この事例は、ナラティブの伝染が、たとえその内容がファンダメンタルズと無関係であったとしても、市場参加者の行動を束縛し、価格を歪める強力な力を持つことを示しています。そして、このような歪みに高値で飛び乗ることは、将来の低リターンに繋がる危険性をはらんでいるのです。

非対称性と摩擦の視点から

なぜ、特定の物語だけが爆発的に広まり、市場を動かすほどの力を持つのでしょうか。そして、その伝染のプロセスにはどのような摩擦が存在するのでしょうか。


Asymmetry:ナラティブの「感染力」の非対称性

ナラティブの伝染モデルが明らかにするのは、物語が持つ「感染力」そのものが、極めて非対称であるという事実です。

全ての物語が、同じように人々の心に響き、社会に広まっていくわけではありません。ロバート・シラーが指摘するように、人間の感情に強く訴えかけ、シンプルで分かりやすく、そして興味深い人間的要素を持つ物語は、退屈で、複雑で、データに基づいた客観的な事実よりも、非対称に強い伝染力(ヴァイラリティ)を持つのです [1]。

「AIが人類の仕事を奪う」という物語は、「労働市場の構造変化に関する多変量分析」という報告書よりも、遥かに速く、そして広く伝播します。この「物語の魅力」と「事実の退屈さ」との間の非対称性こそが、時に市場全体を、ファンダメンタルズからかけ離れた熱狂や悲観へと導く力の源泉です。

このアノマリーにおける収益機会とは、市場がどのようなナラティブに「感染」しているかを客観的に観測し、そのナラティブがもたらす価格の歪みを利用することにあります。しかしそれは同時に、自らがその強力なナラティブに感染してしまうリスクと、常に隣り合わせでもあるのです。


Friction:「物語」の定量化という技術的摩擦

手数料やスプレッドのような基本的な摩擦に加え、ナラティブの伝染モデルを現実に適用する際には、より本質的で、技術的な「摩擦」が存在します。

測定の困難性という摩擦

ナラティブ経済学が直面する最大の摩擦が、「物語をどうやって定量的に測定するか」という技術的な問題です。

金利やGDPと異なり、社会に流布する物語の「感染率」や「回復率」といったSIRモデルのパラメータ [2]を、客観的なデータとして捉えることは極めて困難です。近年、テキストマイニングなどの技術発展により、この摩擦は克服されつつありますが、それでもなお、物語の微妙なニュアンスや、人々の解釈の多様性を完全にデータ化することはできません。この測定の困難性という技術的な摩擦が、ナラティブの伝染モデルを、いまだ発展途上の、挑戦的な分野にしているのです。

モデルの単純化という摩擦

SIRモデルや情報カスケードモデル [3]は、複雑な人間の相互作用を理解するための、強力な思考の枠組みを提供します。しかし、それらはあくまで現実を大幅に単純化した「モデル」に過ぎません。

現実のナラティブの伝播は、人々の社会的ネットワークの構造、文化的背景、メディアの影響など、無数の要因が複雑に絡み合った結果です。この複雑な現実を、単純な数理モデルで完全に記述しようとすることには、本質的な限界があります。この「モデルの単純さ」と「現実の複雑さ」との間のギャップが、モデルの予測精度を制約する、情報の摩擦として機能するのです。


総括

・ナラティブの伝染モデルは、経済的なアイデアや物語が、まるでウイルスのように人々の間で広まっていくプロセスを、疫学のSIRモデルなどを用いて分析するアプローチです [1, 2]。

・この枠組みは、なぜ特定の物語が爆発的な流行となり、バブルや不況といった大きな経済変動を引き起こすのかを、動的に理解するための新しい視点を提供します。

・情報カスケード [3]や、大規模な投資家の行動が引き起こす連鎖反応のモデル [4]なども、ナラティブの伝染を説明する上で重要な示唆を与えてくれます。

・ナラティブの伝染は、たとえその内容がファンダメンタルズと無関係であっても、市場参加者の行動を束縛し、価格を歪める強力な力を持つことが示されています [5]。


用語集

ナラティブの伝染モデル (Narrative Contagion Model) 経済的な物語(ナラティブ)が、人から人へと伝播していく様子を、疫学(感染症学)の数理モデルなどを用いて分析する理論的枠組み。

ナラティブ経済学 (Narrative Economics) ロバート・シラーが提唱した、人々の間で伝播する「物語」が、経済全体の変動にいかに影響を与えるかを分析する経済学のアプローチ。

SIRモデル Susceptible(感受性保持者)、Infected(感染者)、Recovered(回復者)の3つのグループを用いて、感染症の流行を数理的に記述する、疫学の基本的なモデル。

疫学 (Epidemiology) 集団における病気の発生原因や流行の動態を研究する学問。

情報カスケード (Informational Cascade) 人々が、自らの私的な情報よりも、先行する他者の行動をより重要な情報源と見なし、次々と行動を模倣していく連鎖的なプロセス。

バブル (Bubble) 資産の価格が、その本質的な価値から大きくかけ離れて、熱狂的に高騰する状態。

ファンダメンタルズ (Fundamentals) 企業の収益力や財務状況、資産価値といった、その企業の本質的な価値を決定する基礎的条件。

アノマリー (Anomaly) 現代ファイナンス理論の常識では説明できないが、市場で経験的に観測されるリターンの規則性。

センチメント (Sentiment) 市場参加者の総意として形成される、楽観や悲観といった市場全体の心理状態や雰囲気のこと。

市場の効率性 資産価格が、利用可能な全ての情報を、常に完全に織り込んでいるという状態。


参考文献一覧

[1] Shiller, R. J. (2017). Narrative economics. American Economic Review, 107(4), 967-1004.
https://doi.org/10.1257/aer.107.4.967?utm_source=chatgpt.com

[2] Kermack, W. O., & McKendrick, A. G. (1927). A Contribution to the Mathematical Theory of Epidemics. Proceedings of the Royal Society A, 115(772), 700-721.
https://doi.org/10.1098/rspa.1927.0118

[3] Banerjee, A. V. (1992). A simple model of herd behavior. The Quarterly Journal of Economics, 107(3), 797-817.
https://doi.org/10.2307/2118364

[4] Gabaix, X., Gopikrishnan, P., Plerou, V., & Stanley, H. E. (2003). A theory of power-law distributions in financial market fluctuations. Nature, 423(6937), 267-270.
https://doi.org/10.1038/nature01624?utm_source=chatgpt.com

[5] Shleifer, A. (1986). Do demand curves for stocks slope down?. The Journal of Finance, 41(3), 579-590.
https://doi.org/10.1111/j.1540-6261.1986.tb04518.x

               

著者:The Asymmetry Signal運営者 A/S

               

2007年トレードを開始、暗号資産の裁定取引で8桁の利益を達成。法人にて、取引責任者経験あり。神戸大学・東京大学大学院で培った学術的調査力をもとに、市場の非対称な機会を分析・解説します。より詳しいプロフィールはこちら

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