概論
優れたエントリーとエグジットのルールを持つトレーディング戦略を開発したとします。しかし、それだけでは長期的に成功することはできません。成功と失敗を分ける、もう一つの、そしておそらくより重要な要素がポジションサイジング、すなわち「一回の取引に、自己資金の何パーセントをリスクに晒すか」という資金管理の技術です。
リスクを取りすぎれば、優れた戦略であっても、数回の不運な連敗で破産してしまいます。逆に、リスクを取らなすぎれば、せっかくのエッジを活かしきれず、資産はほとんど増えません。この、「破産(ruin)」と「停滞(stagnation)」という二つの極端の間で、最適なリスク量を見つけ出すことこそが、ポジションサイジングの核心的な課題です。
この問題に対して、数学的な観点から最も有名で、かつ影響力のある答えを提示したのが、ベル研究所の科学者であったジョン・ケリー・ジュニアです。彼が1956年に発表した論文「A new interpretation of information rate」は、本来は通信理論における情報伝達率を扱うものでしたが、その中で示された数式が、後にケリーの公式(Kelly Criterion)として知られるようになりました [1]。
ケリーの公式は、「勝つ確率」と「勝った時の利益と負けた時の損失の比率(ペイオフレシオ)」という二つの変数から、長期的な資産の成長率を最大化するための、最適な賭け金の割合を導き出します。
この「資産の成長率を最大化する」という考え方のルーツは、18世紀の数学者ダニエル・ベルヌーイにまで遡ることができます [2]。彼は、有名な「サンクトペテルブルクのパラドックス」を通じて、人々が最大化しようとするのは金額の期待値そのものではなく、資産が増えることから得られる「効用(満足度)」であり、資産が増えるほどその満足度の増加分(限界効用)は逓減していくことを示しました。ケリーの公式は、このベルヌーイの洞察を、より実践的な資金管理の数式へと発展させたものと解釈することができます。
長所・短所の解説、利益例・損失例の紹介
長所、強み、有用な点について:破産を避け、富を最大化する数学
長期的な資産成長率の最大化
ケリーの公式が持つ最大の理論的な強みは、「もし、取引の確率とペイオフが正確に分かっているならば、この公式に従って賭け続けることが、長期的な資産の幾何学的成長率を最大化する」という点にあります。
これは、ケリーの公式が、単なる経験則ではなく、数学的に導出された最適解であることを意味します。他のどのようなサイジング手法(例えば、常に資金の1%をリスクに晒す、といった定率法)よりも、ケリーの公式は、理論上は最も速く資産を増やすことができるのです。
破産の回避
ケリーの公式は、資産の成長を最大化すると同時に、理論上は決して破産(全資金を失うこと)しないという、極めて重要な性質を併せ持っています。これは、公式が常に、自己資金の一定「割合」をリスクに晒すことを推奨するためです。資金が減れば、それに伴って次の取引で取るリスクの絶対額も自動的に減少し、ゼロになることはありません。この、成長の追求と自己保存のバランスは、マクリーンらの研究でも論じられている、動的な投資分析の中心的なテーマです [3]。
客観的で規律ある資金管理
ケリーの公式は、トレーダーの感情や主観を排除し、客観的な数値に基づいた規律あるポジションサイジングを可能にします。連勝して強気になっている時も、連敗して弱気になっている時も、公式が示す割合に従うことで、過剰なリスクテイクや、過度に臆病な取引を避けることができます。これは、ハリー・マーコウィッツがポートフォリオ全体のリスク管理に規律をもたらしたのと同様の役割を、個々の取引のレベルで果たすものと言えるでしょう [4]。
短所、弱み、リスクについて:「最適」の罠(損失事例)
ケリーの公式は理論的には完璧に見えますが、現実の市場でそれを利用しようとすると、いくつかの深刻な、そしてしばしば致命的な罠が待ち受けています。
パラメータの推定誤差という根源的な問題
ケリーの公式が機能するための大前提は、「勝つ確率(p)」と「ペイオフレシオ(b)」を、事前に、かつ正確に知っていることです。しかし、現実のトレーディングにおいて、これらのパラメータを正確に知ることは不可能です。
我々にできるのは、過去のデータからそれらを「推定」することだけですが、その推定値には必ず誤差が含まれます。もし、バックテストの結果がたまたま良かったために、戦略の優位性(期待値)を過大評価してしまうと、ケリーの公式は過大なポジションサイズを推奨します。この「過剰な賭け(Overbetting)」は、理論が保証するはずだった破産回避の性質を無効にし、口座を破滅に導く最も直接的な原因となります。デミゲルらの研究が示したように、パラメータの推定誤差は、洗練された「最適」モデルを、単純なモデルよりも悪い結果に導くことさえあるのです [5]。
極端なボラティリティとドローダウン
たとえパラメータを正確に推定できたとしても、「フル・ケリー」と呼ばれる、公式が示す通りの割合で賭け続ける戦略は、極めて高いボラティリティと、精神的に耐え難いほどの巨大なドローダウンを経験することが知られています。資産は長期的には最大化されるかもしれませんが、その過程で資産が半分、あるいはそれ以下になるような下落を何度も経験する可能性があるのです。このため、多くの実践家は、公式が示す割合の半分(ハーフ・ケリー)や、それ以下の割合を用いることを推奨しています。
人間の非合理的な行動
ケリーの公式は、合理的な資金管理の上限を示しますが、多くのトレーダーは、しばしばこの上限を無視して、さらに大きなリスクを取ってしまいます。バーバリスとホアンの研究が示唆するように、投資家は「宝くじ」的な、一発逆転の大きな利益をもたらす可能性のある取引を過度に好む傾向があります [6]。この行動バイアスが、トレーダーを合理的なポジションサイジングから遠ざけ、破滅的な過剰な賭けへと駆り立てるのです。
非対称性と摩擦の視点から
なぜ、ポジションサイジングはこれほどまでに重要なのでしょうか。そして、ケリーの公式という「最適解」が、なぜこれほどまでに扱いが難しいのでしょうか。その本質を、当メディアの根幹をなす「非対称性と摩擦」の観点から解き明かすことができます。
Asymmetry:リターンの非対称性と「破産」の非対称性
ポジションサイジングが向き合うのは、トレーディングにおける最も根源的な「非対称性」です。
リターンの非対称性
一つ一つの取引のリターンは、非対称です。ストップロスをタイトに設定し、利益を伸ばす(損小利大)戦略のリターン分布は、正の歪度を持つ非対称な形になります。ケリーの公式は、まさにこのリターンの非対称性(ペイオフレシオ)を、その計算の根幹に据えています [1]。
「破産」という究極の非対称性
より重要なのが、富の蓄積と破産との間の、決定的な非対称性です。資産を2倍、10倍へと増やしていく道は、時間を要する幾何学的なプロセスです。しかし、資産をゼロにする「破産」は、たった一度の、過剰に大きなリスクテイクによって、瞬時に起こり得ます。
一度破産してしまえば、市場から永久に退場させられ、その後のいかなる収益機会にも参加することはできません。つまり、リターンの世界において、マイナス100%の損失は、プラス方向のいかなる利益とも等価交換できない、究極的に非対称な終着点です。
ポジションサイジングの第一の目的は、この究極の非対称な結末である「破産」を、確率的に絶対に避けることにあります。ケリーの公式が、長期的な資産成長を最大化すると同時に、破産を回避する性質を持つのは、この非対称な現実を数学的に捉えているからに他なりません [3]。
Friction:「パラメータの不確実性」という究極の摩擦
手数料やスプレッドのような基本的な摩擦に加え、ケリーの公式を現実の市場で使おうとする際には、乗り越えることが極めて困難な、情報の「摩擦」が存在します。
パラメータの不確実性という情報の摩擦
ケリーの公式は、入力として与えられたパラメータ(勝つ確率とペイオフレシオ)が「真実」であるという、非常に強い仮定の上に成り立っています。ここに、最大の摩擦が存在します。すなわち、現実のトレーディングにおいて、未来の真のパラメータを、神ならぬ人間が知ることは不可能である、という事実です。
我々にできるのは、ノイズに満ちた過去のデータから、これらのパラメータを「推定」することだけです。しかし、この推定値には、必ず誤差が含まれます。この「パラメータの不確実性」という根源的な情報の摩擦が、ケリーの公式を、理論上の「最適解」から、現実世界での「極めて危険な道具」へと変貌させます。
もし、バックテストの結果が良かったために、自らのエッジを過大評価したパラメータを公式に投入してしまえば、公式は過大なポジションサイズを推奨し、それは破産への最短ルートとなります。デミゲルらの研究が示したように、パラメータの推定誤差は、洗練された最適化モデルを、単純なモデルよりも悪い結果に導くことさえあるのです [5]。この摩擦があるからこそ、多くの実践家は、理論的な最適値であるフル・ケリーではなく、より安全なハーフ・ケリーなどを選択するのです。
総括
・ポジションサイジングは、一回の取引で取るべきリスク量を決定する資金管理の技術であり、トレーディングの成否を分ける極めて重要な要素です。
・ケリーの公式は、ある戦略の優位性(勝率とペイオフレシオ)が既知である場合に、長期的な資産の成長率を最大化する最適なポジションサイズを、数学的に導き出します [1]。
・この公式は、資産成長を最大化すると同時に、理論上は破産を回避するという優れた性質を持ちます [3]。
・しかし、その最大の弱点は、入力となるパラメータ(勝率とペイオフレシオ)の推定誤差に対して、極めて敏感である点です。パラメータを過大評価すると、過剰なリスクテイクを推奨し、破産のリスクを急激に高めてしまいます [5]。
用語集
ポジションサイジング (Position Sizing) 一回の取引において、自己資金の何パーセントをリスクに晒すか、あるいは何単位のポジションを持つかを決定する資金管理の技術。
ケリーの公式 (Kelly Criterion) ある賭け(取引)に対して、長期的な資産の成長率を最大化するための、最適な賭け金の割合を算出する数式。
期待値 (Expected Value) ある試行を行った際に、結果として得られる数値の平均値。「結果×その確率」を全て足し合わせることで計算される。
期待効用理論 (Expected Utility Theory) 人々は金額の期待値を最大化するのではなく、その金額から得られる「効用(満足度)」の期待値を最大化するように行動するという理論。
破産リスク (Risk of Ruin) 取引を続ける中で、許容できないレベルまで資金を失い、取引の継続が不可能になる確率。
幾何学的平均リターン (Geometric Mean Return) 複利効果を考慮に入れた、より現実的な長期間の平均リターンのこと。ケリーの公式が最大化しようとするのは、このリターンである。
ペイオフレシオ (Payoff Ratio) 一回あたりの平均利益が、平均損失の何倍あるかを示す指標。リスク・リワード・レシオとも呼ばれる。
ドローダウン (Drawdown) ポートフォリオの資産価値が、過去の最高値から下落した際の、その下落率のこと。
パラメータ (Parameter) 数理モデルの挙動を決定する、母数や係数のこと。ケリーの公式においては、勝率やペイオフレシオがこれにあたる。
バックテスト (Backtest) ある投資戦略が、過去の市場データを用いてシミュレーションした場合に、どのようなパフォーマンスを示したかを検証すること。
参考文献一覧
[1] Kelly Jr, J. L. (1956). A new interpretation of information rate. Bell System Technical Journal, 35(4), 917-926.
https://doi.org/10.1002/j.1538-7305.1956.tb03809.x
[2] Bernoulli, D. (1). Exposition of a new theory on the measurement of risk. Econometrica, 22(1), 23-36. (1954 English translation)
https://doi.org/10.2307/1909829
[3] MacLean, L. C., Ziemba, W. T., & Blazenko, G. (1992). Growth versus security in dynamic investment analysis. Management Science, 38(11), 1581-1605.
https://www.jstor.org/stable/2632470
[4] Markowitz, H. (1952). Portfolio Selection. The Journal of Finance, 7(1), 77-91.
https://doi.org/10.1111/j.1540-6261.1952.tb01525.x
[5] DeMiguel, V., Garlappi, L., & Uppal, R. (2009). Optimal versus naive diversification: How inefficient is the 1/N portfolio strategy?. The Review of Financial Studies, 22(5), 1915-1953.
https://www.jstor.org/stable/30226017
[6] Barberis, N., & Huang, M. (2008). Stocks as lotteries: The implications of probability weighting for security prices. American Economic Review, 98(5), 2066-2100.
https://www.jstor.org/stable/29730162
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