概論
移動平均線は、数あるテクニカル指標の中でも最も古く、そして最も広く使われているツールの一つです。その計算の単純さと、トレンドの方向性を視覚的に捉える能力から、初心者からプロのトレーダーまで、多くの市場参加者の意思決定の基盤となっています。
移動平均線にはいくつかの種類がありますが、その中でも特に代表的なのが、単純移動平均線(Simple Moving Average, SMA)と指数平滑移動平均線(Exponential Moving Average, EMA)です。SMAは、指定した期間の価格を単純に平均したものであり、すべての価格データを平等に扱います。一方、EMAは、計算式に平滑化定数を用いることで、より直近の価格に大きな重みを与えるように設計されています。この計算方法の違いから、一般的にSMAは価格の動きに対して滑らかに反応し、EMAはより敏感に、速く反応するという特徴があります。
この「滑らかさ」と「速さ」のトレードオフは、トレーダーの間で長年の議論を生んできました。「SMAはダマシが少ないが、トレンドの転換を捉えるのが遅れる」「EMAはトレンドの初動を捉えやすいが、ダマシに会いやすい」といった通説が広く語られています。
しかし、これらの通説は、果たして学術的な検証に耐えうるものなのでしょうか。本稿では、この「SMA対EMA」という古典的な問いに対し、複数の査読付き学術論文の知見を基に、移動平均線を用いた取引ルールの有効性と、その根源的な限界について、客観的な視点から深く掘り下げていきます。
長所・短所の解説、利益例・損失例の紹介
移動平均線を用いた取引戦略、特に価格が移動平均線を上抜けたら買い、下抜けたら売るというシンプルなルールは、その有効性を巡って数多くの学術研究の対象となってきました。その結果は、移動平均線が持つ可能性と、それが直面する厳しい現実の両方を浮き彫りにしています。
長所、強み、有用な点について
移動平均線戦略の最大の強みは、市場に存在するかもしれない「トレンド」という現象を、客観的かつ体系的に捉えようとする点にあります。このアプローチが、特定の市場や期間において、単純なバイ・アンド・ホールド戦略を上回るパフォーマンスを示す可能性が、複数の研究によって示唆されています。
収益事例として、この分野で最も影響力のある研究の一つに、ダウ平均株価の約100年間のデータを分析したものがあります。この研究では、様々な期間の移動平均線を用いた取引ルールが、統計的に有意な予測力を持つことを発見し、テクニカル分析が単なる偶然ではない可能性を示しました [1]。
この有効性は、特に効率化が進んでいない市場でより顕著に現れる傾向があります。例えば、南アジアの新興市場を対象とした研究では、移動平均線を用いた手法がバイ・アンド・ホールド戦略を上回るリターンを生み出すことが示されています [4]。また、近年の外国為替市場を対象とした研究でも、特に新興国通貨において、単純移動平均線(SMA)が最も効果的な指標の一つであることが報告されています [7]。これらの結果は、移動平均線が、市場の非効率性を捉えるための有効なツールとなり得る可能性を示しています。
短所、弱み、リスクについて
一方で、移動平均線の有効性を主張する研究には、深刻な統計的問題が内在していることが、その後のより厳密な研究によって指摘されています。
最大の弱点は、過去のデータで最も成績の良いルールを見つけ出すという行為そのものに潜む「データスヌーピング」のバイアスです。前述の研究[1]などで示された移動平均線の予測力も、このデータスヌーピングのバイアスを厳密に考慮すると、そのリターンは統計的な幻である可能性が高いと結論付けられています [3]。
また、テクニカル分析の収益性に関する95の学術研究を包括的にレビューした論文でも、報告されている利益の多くは、データスヌーピング、取引ルールの事後的な選択、そしてリスクや取引コストの見積もりの難しさといった、様々な問題に影響されている可能性が指摘されています [2]。東南アジアの株式市場を対象としたある研究では、移動平均線を含むテクニカルルールが統計的に有意なリターンを生む市場があったものの、取引コストを考慮に入れると、その利益のほとんどが消滅してしまったことが報告されています [5]。
損失事例として最も典型的なのは、明確なトレンドが存在しない「レンジ相場」です。価格が移動平均線の上下を頻繁に行き来するような市場では、移動平均線戦略は「ダマシ」のシグナルを連発し、取引コストを積み重ねるだけの結果に終わる危険性が極めて高いです。
SMAとEMAのどちらが絶対的に優れているかという問いに対しては、S&P 500とバルト諸国の指数を比較した研究でも、市場ごとに最適な指標が異なることが示されており、学術的なコンセンサスは存在しません [6]。そのパフォーマンスは、テストされる市場、期間、そして使用するパラメータ(期間設定など)に大きく依存するため、「常に優れている」単一の解は存在しないというのが、研究が示唆する現実的な結論です。
非対称性と摩擦の視点から
SMAとEMA、どちらが優れているのかという問いの答えは、市場の非効率性の本質を「非対称性」と「摩擦」という観点から解き明かすことで、より深いレベルで理解することができます。両者の優劣は、この二つの要因をどう捉えるかにかかっているのです。
Asymmetry:情報の重み付けの非対称性
SMAとEMAの根本的な違いは、過去の価格データに対する「重み付けの非対称性」にあります。SMAは、過去の全ての価格を平等に扱い、民主的に平均を算出します。一方、EMAは、より直近の価格に大きな重みを与えるという、独裁的な計算方法を採用しています。
この非対称性こそが、両者のパフォーマンスの違いを生む源泉です。EMAは、直近の市場参加者のセンチメントの変化を素早く捉えることができます。新しい情報やニュースに対する市場の反応を、より速く指標に反映させるため、トレンドの初動を捉える上では有利に働く可能性があります。これは、市場の情報が瞬時にではなく、徐々に価格に織り込まれていくという非効率性を利用しようとする試みです。
対照的に、SMAは過去のデータを平等に扱うため、短期的な価格のノイズを平滑化し、より安定的で長期的なトレンドを示す傾向があります。これは、短期的なセンチメントの変化はノイズである可能性が高いという、別の種類の非対称性、すなわち「短期的な情報」と「長期的なトレンド」の価値の非対称性に賭ける戦略と見なせます。どちらの非対称性を重視するかが、SMAとEMAの選択を決定づけるのです。
Friction:遅延とダマシという二重の摩擦
移動平均線戦略が直面する最も根源的な「摩擦」は、その計算方法に起因する「遅延(Lag)」です。移動平均線は、定義上、過去のデータに基づいて算出されるため、常に現在の価格より遅れて動きます。この遅延は、トレンド転換のシグナルを遅らせ、利益機会を減少させる、不可避の収益阻害要因です。
この遅延という摩擦は、明確なトレンドが存在しない「レンジ相場」において、さらに深刻な「ダマシ(Whipsaw)」という摩擦を生み出します。価格が移動平均線の上下を頻繁に行き来する市場では、トレンドフォロー戦略は、遅れたシグナルに基づいて、高値で買い、安値で売るという最悪の取引を繰り返すことになります。このダマシによる損失と、それに伴う取引コストの積み重ねが、移動平均線戦略の収益性を蝕む最大の要因です。
さらに、多くの学術研究が警告するように、「データスヌーピング」という知的摩擦も存在します [2, 3]。過去のデータで最適に見えたパラメータ(例えば、200日移動平均線)が、未来でも有効である保証はどこにもありません。このバックテストと現実の間のギャップという摩擦が、多くのトレーダーを誤った期待へと導くのです。
総括
- 単純移動平均線(SMA)は過去の価格を平等に扱い、指数平滑移動平均線(EMA)は直近の価格を重視するという計算上の違いがあります。
- 移動平均線を用いた戦略は、ダウ平均株価の長期データや、一部の新興市場において、バイ・アンド・ホールド戦略を上回る可能性が示唆されています [1, 4, 7]。
- しかし、これらの肯定的な結果の多くは、統計的な「データスヌーピング」のバイアスを考慮すると、その有効性が疑問視されています [3]。
- テクニカル分析の収益性に関する学術的なレビューは、その有効性を主張する研究の多くが、統計的な問題や取引コストの見積もりの難しさを抱えていると指摘しています [2]。また、取引コストを考慮すると利益が消滅する事例も報告されています [5]。
- 移動平均線戦略は、その計算方法に起因する「遅延」と、レンジ相場における「ダマシ」という根源的な摩擦を内包しており、これが収益性を阻害する主要な要因となります。
用語集
移動平均線 一定期間の価格の平均値を線で結んだもので、相場のトレンドの方向性を視覚的に示す、最も基本的なテクニカル指標の一つ。
単純移動平均線 (SMA) 指定した期間の終値を単純に算術平均して計算される移動平均線。すべての価格データを平等に扱う。
指数平滑移動平均線 (EMA) 直近の価格データにより大きな重みを与えて計算される移動平均線。SMAよりも価格変動への反応が速いとされる。
トレンドフォロー 市場に発生したトレンド(価格の一方向への動き)を検出し、その方向に沿ってポジションを取る投資戦略。移動平均線は代表的なトレンドフォロー指標。
レンジ相場 価格が一定の範囲(レンジ)内で上下の動きを繰り返す、明確なトレンドが存在しない市場状況。「ボックス相場」とも呼ばれる。
ダマシ (Whipsaw) テクニカル指標が売買シグナルを発した直後に、価格が逆方向に動いてしまい、結果的に損失につながるような誤ったシグナルのこと。
データスヌーピング 大量のデータの中から、意味のある規則性を探す過程で、本来は偶然の産物であるパターンを、本物のシグナルであると誤って結論付けてしまう統計的な罠。
遅延 (Lag) テクニカル指標が、実際の価格変動よりも遅れて反応する性質のこと。移動平均線は、過去のデータを用いるため、本質的に遅延を伴う。
バイ・アンド・ホールド 金融資産を購入し、市場の短期的な変動に関わらず、長期間保有し続ける投資戦略。
ゴールデンクロス / デッドクロス 短期移動平均線が長期移動平均線を上抜ける(ゴールデンクロス、買いシグナル)または下抜ける(デッドクロス、売りシグナル)ことで、トレンドの転換を示すとされるシグナル。
参考文献一覧
[1] Brock, W., Lakonishok, J., & LeBaron, B. (1992). Simple technical trading rules and the stochastic properties of stock returns. The Journal of Finance, 47(5), 1731-1764.
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[2] Park, C. H., & Irwin, S. H. (2007). What do we know about the profitability of technical analysis?. Journal of Economic Surveys, 21(4), 786-826.
https://doi.org/10.1111/j.1467-6419.2007.00519.x
[3] Sullivan, R., Timmermann, A., & White, H. (1999). Data-snooping, technical trading rule performance, and the bootstrap. The Journal of Finance, 54(5), 1647-1691.
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https://doi.org/10.1186/s40064-015-1334-7
[6] Dzikevičius, A., & Šaranda, S. (2010). EMA versus SMA usage to forecast stock markets: The case of S&P 500 and OMX Baltic Benchmark. Business Theory and Practice, 11(4), 398-405.
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[7] Ghanem, S., Harasheh, M., Sbaih, Q., & Ajmal, T. K. (2024). The predictability of technical analysis in foreign exchange market using forward return: evidence from developed and emerging currencies. Cogent Economics & Finance, 12(1), 2428781.
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