カルマンフィルター:ノイズの中からシグナルを抽出する技術

概論

私たちが日々観測する株価や経済指標といったデータは、企業の真の価値や経済のファンダメンタルズといった「シグナル(信号)」と、市場参加者の感情的な売買や、一時的な需給の偏りといった「ノイズ(雑音)」が混ざり合ったものです。優れたトレーダーや投資家は、このノイズに惑わされることなく、その背後にある本質的なシグナルを抽出しようと試みます。

この、ノイズに汚された観測データから、直接観測することのできない「真の状態」を、統計的に最適に推定するための強力なアルゴリズムが、カルマンフィルターです。

カルマンフィルターは、ハンガリー出身のアメリカの数学者、ルドルフ・カルマンが1960年の論文で発表した、画期的なフィルタリング手法です [1]。元々は、アポロ計画における宇宙船の軌道計算など、制御工学の分野で開発されたこの技術は、その汎用性の高さから、後に計量経済学や金融工学の分野にも広く応用されることになりました。

カルマンフィルターの挙動は、「予測」と「更新」という二つのステップを、逐次的に繰り返すプロセスとして理解できます。

  1. 予測ステップ:まず、前期の状態と、システムがどのように変化するかという「状態方程式」を用いて、今期の「真の状態」を予測します。
  2. 更新ステップ:次に、実際に得られた、ノイズを含む「観測値」と、予測値とを比較します。そして、その誤差(予測がどれだけ外れたか)を用いて、予測値をより確からしい方向へと「修正(更新)」し、今期の最終的な状態の推定値を得るのです。

このアルゴリズムを機能させるためには、分析対象のシステムを状態空間モデルとして記述する必要があります。状態空間モデルとは、観測不可能な「状態(State)」が時間と共にどう変化するか(状態方程式)と、その状態から、観測可能なデータがどのように生成されるか(観測方程式)を、連立方程式で表現したものです。この枠組みの計量経済学への応用は、アンドリュー・ハーヴェイによる1989年の著作などで体系化されました [2]。


長所・短所の解説、利益例・損失例の紹介

長所、強み、有用な点について:動的な現実を追跡する力

時間と共に変化するパラメータの推定(活用事例)

カルマンフィルターが金融の世界で発揮する最大の強みは、時間と共に変化する(Time-Varying)、観測不可能な値を推定する能力にあります。

例えば、ある株式のベータ(市場感応度)は、企業の事業戦略の変化や、市場環境の変化によって、常に変動していると考えるのが自然です。伝統的な回帰分析では、ある期間の「平均的」なベータしか計算できません。しかし、カルマンフィルターを用いれば、ベータそのものを観測不可能な「状態」と見なし、日々の株価データから、動的に変化していくベータの値を、逐次的に推定することが可能になります。ファフらの2000年の研究は、このような動的なベータを推定する上で、カルマンフィルターが有効な手法の一つであることを示しています [3]。

動的なヘッジ比率の算出(活用事例)

この能力は、より実践的なトレーディングにも応用されます。例えば、株式ポートフォリオを先物でヘッジする際の最適ヘッジ比率もまた、時間と共に変化するものです。

ゴーシュによる1993年の研究は、状態空間モデルとカルマンフィルターを用いて、この動的なヘッジ比率を推定する手法を示しました [4]。市場の状況変化に応じて、ヘッジ比率をリアルタイムで最適化することで、より効率的なリスク管理が可能になるのです。

不確実性のモデル化

カルマンフィルターは、単に状態の推定値を示すだけでなく、その推定値がどれくらいの不確実性(誤差)を含んでいるかを、同時に計算します。パストールとスタンバーによる2009年の研究のように、現代のアセットプライシング研究では、このようなパラメータの不確実性をモデルに明示的に組み込むことが、重要なテーマとなっています [5]。

短所、弱み、リスクについて:「正しいモデル」への完全依存

モデル設定リスク(GIGOの原則)

カルマンフィルターは、あくまで与えられた「状態空間モデル」が正しいという前提の下で、最適な推定を行うアルゴリズムです。その最大の弱点は、もし土台となる状態空間モデルの記述が間違っていた場合、フィルターが出力する推定値もまた、全く意味のないものになってしまうという点にあります。

これは、モンテカルロ・シミュレーションにおける「Garbage In, Garbage Out(ゴミを入れれば、ゴミしか出てこない)」の原則と同じです。状態の変化や、観測ノイズの性質について、分析者が誤った仮定を置いてしまえば、カルマンフィルターは、その誤った仮定の下で「最適」な、しかし現実とはかけ離れた答えを算出してしまいます。

正規分布と線形性の仮定

標準的なカルマンフィルターは、その数学的な導出の過程で、状態方程式と観測方程式が線形であり、全ての誤差項が正規分布に従うという、非常に強い仮定を置いています。

しかし、現実の金融市場は、しばしば非線形なダイナミクスや、正規分布から大きく逸脱したファットテールを持つリターン分布を示します。このような状況下で標準的なカルマンフィルターを適用すると、特に市場の暴落時など、極端な事象が発生した際に、その推定が大きく破綻してしまう危険性があります。

非対称性と摩擦の視点から

カルマンフィルターは、なぜこれほどまでに強力な推定ツールとなり得るのでしょうか。そして、その応用にはどのような非対称なリスクと摩擦が伴うのでしょうか。


Asymmetry:シグナルとノイズの「非対称な」関係性

カルマンフィルターの思考の核心には、観測不可能な「シグナル(真の状態)」と、観測可能な「ノイズ混じりのデータ」との間の、非対称な関係性が存在します。

私たちが本当に知りたいのはシグナルですが、直接手に取ることができるのはノイズに汚されたデータだけです。カルマンフィルターは、この二つの情報を非対称に扱います。

フィルター内部では、「過去の状態から予測される現在の状態」と、「現在の観測データが示す状態」という二つの情報源が常に対立します。カルマンフィルターは、それぞれの情報が持つ「不確実性(ノイズの大きさ)」を評価し、より確からしい情報の方に大きな重みを与える、という動的な更新プロセスを繰り返します。観測データのノイズが大きいと判断すれば、過去からの予測を重視し、逆に観測データの信頼性が高いと判断すれば、そちらを大きく取り入れて予測を修正します。

この、情報の質に応じて重み付けを変化させる、非対称な学習プロセスこそが、カルマンフィルターがノイズの中からシグナルを巧みに抽出する力の源泉です。このアノマリーにおける収益機会とは、市場のノイズに惑わされる他の参加者を尻目に、より優れたモデルを用いて、この非対称な学習プロセスをよりうまく実行することにあるのです。


Friction:「正しいモデル」を知り得ないという情報の摩擦

手数料やスプレッドのような基本的な摩擦に加え、カルマンフィルターの応用には、その根幹に関わる、より深刻な「情報の摩擦」と「技術的な摩擦」が存在します。

モデル特定化という情報の摩擦

「Garbage In, Garbage Out」の原則が示すように、カルマンフィルターの性能は、その土台となる状態空間モデルの正しさに完全に依存します。ここに、乗り越えることの極めて困難な、情報の摩擦が存在します。

金融市場における「真の」状態方程式や観測方程式の形を、神ならぬ人間が知ることはできません。分析者が設定するモデルは、常に現実の劣化コピーでしかあり得ません。どの変数を状態とし、それらが時間と共にどう変化し、どのように観測データに現れるのか。この「正しいモデルを特定する」という作業は、高度な専門知識と試行錯誤を要する、巨大な情報の摩擦です。この摩擦があるため、カルマンフィルターは、誰にでも使える万能ツールではなく、専門家による慎重なモデル構築を要求する、難解な道具となっているのです。

線形・正規性の仮定という技術的摩擦

標準的なカルマンフィルターが、その美しい最適性を保証するためには、システムの挙動が線形であり、全てのノイズが正規分布に従う、という非常に強い仮定が必要です [1]。

しかし、現実の金融市場は、非線形なダイナミクスと、ファットテールを持つ非正規なノイズに満ちています。この「モデルの仮定」と「市場の現実」との間のギャップは、技術的な摩擦として機能します。標準的なカルマンフィルターをそのまま適用すると、特に市場の暴落時など、モデルの前提が崩れる局面で、その推定が大きく破綻する危険性があります。この摩擦を乗り越えるためには、拡張カルマンフィルターや粒子フィルターといった、さらに高度で複雑な非線形・非正規のフィルタリング技術が必要となり、技術的な参入障壁はさらに高くなるのです。


総括

・カルマンフィルターは、ノイズを含む観測データから、直接は見えない「真の状態」を、統計的に最適に推定するための強力なアルゴリズムです [1]。

・その中核は、「予測」と「更新」のサイクルを逐次的に繰り返すことであり、その適用には、システムを「状態空間モデル」として記述する必要があります [2]。

・金融の分野では、時間と共に変化するベータ [3]や、最適ヘッジ比率 [4]の推定など、動的な現実を捉える上で絶大な威力を発揮します。

・最大の弱点は、その性能が、分析者が設定する状態空間モデルの正しさに完全に依存するという「モデルリスク」です。モデルが間違っていれば、フィルターの出力も無意味になります。


用語集

カルマンフィルター (Kalman Filter) ノイズを含む観測データから、直接観測できない内部の状態を、逐次的に最適推定するためのアルゴリズム。

状態空間モデル (State-Space Model) システムの挙動を、観測不可能な「状態」の時間的変化(状態方程式)と、その状態から観測データが生成される過程(観測方程式)の二つで記述するモデル。

シグナル (Signal) データの中に含まれる、本質的で意味のある情報。

ノイズ (Noise) データの中に含まれる、ランダムで無意味な変動や観測誤差。

ベータ (Beta) 個別株式のリターンが、市場全体のリターンの変動に対してどれだけ敏感に反応するかを示す指標。

ヘッジ比率 (Hedge Ratio) ある資産のリスクを、別の資産(先物など)を用いて相殺(ヘッジ)する際に必要となる、最適な取引比率。

パラメータ (Parameter) 数理モデルの挙動を決定する、母数や係数のこと。

正規分布 統計学で最も広く用いられる確率分布の一つ。標準的なカルマンフィルターが前提とするノイズの分布。

線形性 (Linearity) 原因と結果の関係が、直線的な(比例的な)関係で表される性質。標準的なカルマンフィルターの前提。

再帰的アルゴリズム (Recursive Algorithm) アルゴリズムの各ステップで、その直前のステップの計算結果を利用して、計算を逐次的に更新していく手法。カルマンフィルターはこの一種。


参考文献一覧

[1] Kalman, R. E. (1960). A new approach to linear filtering and prediction problems. Journal of Basic Engineering, 82(1), 35-45.
https://doi.org/10.1115/1.3662552

[2] Harvey, A. C. (1989). Forecasting, structural time series models and the Kalman filter. Cambridge University Press.
https://doi.org/10.1017/CBO9781107049994

[3] Faff, R. W., Hillier, D., & Hillier, J. (2000). Time varying beta risk: An analysis of alternative modelling techniques. Journal of Business Finance & Accounting, 27(5‐6), 523-554.
https://doi.org/10.1111/1468-5957.00324

[4] Ghosh, A. (1993). Hedging with stock index futures: Estimation and forecasting with a state space model. The Journal of Futures Markets, 13(7), 743-752.
https://doi.org/10.1002/fut.3990130703

[5] Pástor, Ľ., & Stambaugh, R. F. (2009). Predictive systems: Living with imperfect predictors. The Journal of Finance, 64(4), 1583–1628.
https://doi.org/10.1111/j.1540-6261.2009.01474.x

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