投資戦略を開発する多くのクオンツやトレーダーが夢見るのは、バックテストを通じて、将来にわたって安定した利益を生み出す「聖杯」を発見することです。しかし、輝かしいバックテストの結果が、実は統計的な偶然によって生み出された幻である可能性を考えたことはあるでしょうか。この問題こそが、現代の計量ファイナンスが直面する最も深刻な課題の一つ、「p-hacking」です。
p-hackingとは、意図的であるか否かにかかわらず、統計的に有意な結果(一般的にp値が低い結果)が出るまで、データや分析手法、パラメータを様々に試し続ける行為を指します。これは、壁に向かって無数にダーツを投げ、刺さった場所を中心に後から的を描くようなものです。この行為によって見出された「優位な戦略」は、過去のデータに過剰に適合しているだけで、将来の未知のデータに対しては全く機能しない可能性が非常に高くなります。
この問題は非常に根深く、金融研究の世界では「再現性の危機」として知られています。実際に、過去に発表された数百もの市場アノマリー(株価リターンの経験則)を再検証した大規模な研究では、その大部分が統計的に再現できない、あるいは非常に脆弱なものであることが示されました[4]。この結果を受け、現在では新たな投資ファクターが本物であると認められるためには、以前よりもはるかに厳しい統計的基準が求められるようになっています[1]。
この記事では、p-hackingがなぜバックテストにおいてこれほど危険な罠となるのか、そのメカニズムを解き明かし、投資家がこの問題から自身の資産を守るための具体的な方法を、学術的な知見に基づいて解説していきます。
なぜp-hackingは投資家にとって致命的なのか
幻想の戦略が生む現実の損失
p-hackingが投資家にとって致命的である理由は、それが「統計的に優位に見えるが、実際には何のエッジもない戦略」を生み出してしまう点にあります。投資家がp-hackingによって作り出されたバックテスト結果を信じ、その戦略に自己資金を投じた場合、待っているのは理論上の利益ではなく、現実の市場での損失です。期待を裏切られるだけでなく、貴重な資産を危険に晒すことになります。これは、バックテストという安全なシミュレーションの世界と、リアルマネーが動く市場との間に存在する、最も危険な落とし穴の一つです。
「再現性の危機」と金融研究の現実
p-hacking問題は、個人のトレーダーだけでなく、金融業界全体を揺るがす「再現性の危機」の核心にあります。数多くの学術研究が新たな市場アノマリーを発見し、それらを基にした金融商品が開発され、莫大な資金が運用されています。しかし、Hou, Xue & Zhang (2020)が行ったような大規模な再現テストは、それらの「発見」の多くが、p-hackingやデータ上の偶然の産物であった可能性を明らかにしました[4]。これは、我々が目にする華々しい研究成果の裏には、発表されることのなかった無数の失敗したテストが存在することを示唆しています。
バックテスト結果を信じられなくなるということ
p-hackingの存在は、バックテストという定量的アプローチそのものへの信頼を揺るがします。どんなに優れたバックテスト結果を目にしても、「これは無数の試行錯誤の末に見つけ出された、ただの幸運な結果ではないか?」という疑念が常に付きまといます。この不信感は、規律ある投資戦略の構築を困難にします。真に価値のあるシグナルと、統計的なノイズとを見分けるための、より高度な視点と知識が不可欠となるのです。
p-hackingのメカニズムを理解する
p値とは何か?誤解されやすい統計指標
p-hackingを理解するためには、まず「p値」という統計指標について正しく知る必要があります。p値とは、簡潔に言えば、「もし本当に効果がない(戦略に優位性がない)とした場合に、観測されたデータ以上の結果が偶然得られる確率」のことです。慣例的に、この確率が5%(p値 < 0.05)を下回ると、「統計的に有意な結果であり、偶然とは考えにくい」と判断されます。しかし、これは「その戦略が95%の確率で正しい」という意味では全くない点に、注意が必要です。
大量試行が生み出す「偶然の天才」
p-hackingが発生するメカニズムは、多数の参加者によるコイントス大会を想像すると分かりやすいでしょう。例えば、1024人に「10回連続でコイントスの裏表を当てよ」という課題を出したとします。一人一人が成功する確率は非常に低いですが、1024人もいれば、統計的には一人が偶然すべてを的中させることが期待できます。ここで、失敗した1023人のことは忘れ、見事に成功した一人だけを取り上げて「天才予言者現る!」と報道するのが、p-hackingの本質です。
金融市場のバックテストでは、何百もの指標、何千ものパラメータの組み合わせを試すことができます。これだけ大量のテストを行えば、本来は何の優位性もないランダムなデータの中からでも、驚くほど優れたパフォーマンスを示す戦略が「偶然」見つかってしまうのです[1]。
p-hackingに潜む非対称性と摩擦
非対称性:p-hackingが隠すもの、暴くもの
p-hackingは、戦略開発者と投資家の間に深刻な「情報の非対称性」を生み出します。開発者は、成功した一つのバックテスト結果の裏に、何百、何千という失敗した試行があったことを知っています。しかし、投資家や一般に公開されるのは、その輝かしい成功例だけです。投資家は、その戦略が「唯一の試行で発見された天才的なアイデア」なのか、「無数の失敗の屍の上に立つ偶然の産物」なのかを知る術がありません。この非対称性を理解し、公表された結果を鵜呑みにしない批判的な視点を持つこと自体が、現代の投資家にとっての新たなエッジとなり得ます。
摩擦:真のエッジ発見を阻む壁
真に有効な投資戦略の発見は、p-hackingを含む様々な「摩擦」によって妨げられています。
- 出版バイアスと研究者のインセンティブ: 学術界や金融業界では、「統計的に有意な結果が出た」という派手な研究の方が、そうでない研究よりも公表されやすい傾向(出版バイアス)があります。この構造が、研究者に有意な結果を「探し求める」インセンティブを与え、p-hackingを助長する一因となっています。
- 計算能力の向上という罠: コンピュータの性能が向上したことで、誰でも簡単に膨大な数のバックテストを実行できるようになりました。この技術の進歩は、皮肉にも、過去のデータに過剰適合した無意味な戦略を意図せず生み出してしまうリスク(バックテストのオーバーフィッティング)を増大させています[5]。
- アルファの減衰: たとえp-hackingを乗り越えて真の優位性(アルファ)が発見されたとしても、その戦略が学術論文などで公表されると、多くの市場参加者がそれを模倣し始めます。その結果、裁定機会は失われ、元の優位性は時間と共に急速に薄れていくことが知られています[3]。
p-hackingの罠からどう身を守るか
すぐにできること
まず最も重要なのは、あらゆるバックテストの結果に対して健全な懐疑心を持つことです。誰かから優れた戦略を提示されたら、「この結果を得るまでに、他にいくつの戦略を試しましたか?」と問いかける姿勢が大切です。また、バックテストのパフォーマンス数値だけでなく、その戦略がなぜ機能するのかという「経済的な直観」や理論的根拠を重視しましょう。統計的な裏付けがなくとも、経済原則に基づいた単純で理解しやすい戦略の方が、複雑で理由のわからない戦略よりも、長期的には頑健である可能性があります。
長期的に取り組むこと
p-hackingの罠を本格的に回避するためには、より厳格な統計的手法を学ぶことが不可欠です。一つのアプローチは、データを訓練用とテスト用に分け、訓練用データで構築したモデルを、モデルが一度も見たことのない未知のテスト用データ(アウトオブサンプル・データ)で検証することです。また、White (2000) が提案したような、多数の戦略を試したという事実を統計的に補正し、見かけ上の最良戦略が本当に優位性を持つかを検定する手法も存在します[2]。さらに、Harvey, Liu & Zhu (2016) が提唱するように、新たな発見に対しては、従来の基準よりもはるかに厳しい統計的有意性の水準(例えば、p値0.05ではなく0.005など)を自らに課すことも、有効な自己規律となります[1]。
総括
- p-hackingとは、統計的に有意な結果が出るまで分析を繰り返すことで、偶然の産物を本物の発見であるかのように見せかけてしまう問題です。
- 金融研究における「再現性の危機」の主因の一つであり、過去に報告されたアノマリーの多くが、p-hackingによるものであった可能性が指摘されています[4]。
- この問題に対処するため、現代の金融研究では、新たな発見に対して従来よりも格段に厳しい統計的基準を設けることが標準となりつつあります[1]。
- p-hackingによって見出された戦略は、現実の市場では機能せず、投資家に損失をもたらす危険な罠です。
- この罠を避けるには、懐疑的な視点、経済的直観の重視、そしてアウトオブサンプルテストなどの厳格な検証プロセスが不可欠です。
用語集
- p-hacking 統計分析において、有意な結果(低いp値)が得られるまで、試行錯誤を繰り返す行為。これにより、本来は無関係な変数間に、あたかも意味のある相関があるかのような誤った結論を導き出してしまう。
- p値 統計的仮説検定において、帰無仮説(例えば「この戦略に優位性はない」)が正しいと仮定したときに、観測された結果以上に極端な結果が偶然生じる確率。この値が小さいほど、帰無仮説は棄却されやすい。
- バックテスト ある投資戦略や売買ルールが、過去のデータを用いてどの程度のパフォーマンスを上げたかを検証するシミュレーションのこと。
- 再現性の危機 過去に科学的な研究で報告された結果が、後の研究者による追試で再現できないという問題が、心理学や医学、経済学など幅広い分野で指摘されている状況。
- データスヌーピング p-hackingとほぼ同義で使われることが多い用語。データ(data)を詮索する(snoop)ように、有意な関係性を探し回ることから来ている。
- アウトオブサンプル・テスト モデルや戦略を構築(訓練)するために使用したデータとは別の、未知のデータ(サンプル外データ)を用いて、そのモデルの真の性能を検証するテスト。
- アノマリー 現代ファイナンス理論ではうまく説明できないが、経験的に観測される市場の規則性のこと。例えば、小型株効果やバリュー効果などがある。
参考文献一覧
[1] Harvey, C. R., Liu, Y., & Zhu, H. (2016). …and the Cross-Section of Expected Returns. The Review of Financial Studies, 29(1), 5–68.https://doi.org/10.1093/rfs/hhv059
[2] White, H. (2000). A Reality Check for Data Snooping. Econometrica, 68(5), 1097–1126.https://doi.org/10.1111/1468-0262.00152
[3] McLean, R. D., & Pontiff, J. (2016). Does Academic Research Destroy Stock Return Predictability?. The Journal of Finance, 71(1), 5–32.https://doi.org/10.1111/jofi.12365
[4] Hou, K., Xue, C., & Zhang, L. (2020). Replicating Anomalies. The Review of Financial Studies, 33(5), 2019–2133.https://doi.org/10.1093/rfs/hhy131
[5] Bailey, D. H., Borwein, J. M., López de Prado, M., & Zhu, Q. J. (2017). The probability of backtest overfitting. Journal of Computational Finance, 20(4), 39-70.https://doi.org/10.21314/JCF.2016.322


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