概論
「イングランド銀行を潰した男」として知られる投機家、ジョージ・ソロス。しかし、彼の本質は単なるトレーダーに留まらず、市場と人間社会を支配する独自の法則を見出そうとした哲学者でもあります。その思索の核心にあり、彼の驚異的な投資パフォーマンスの理論的支柱となったのが、「再帰性(Reflexivity)」の理論です。
この理論は、伝統的な経済学が前提とする世界観、すなわち、市場は需給が均衡する点に落ち着き、価格は利用可能な全ての情報を織り込んだ効率的なものであるという考え方とは、根本的に対立します [1]。ソロスによれば、市場参加者の「思考」と、彼らが参加している「現実」は、互いに独立したものではありません。むしろ、両者は相互に影響を与え合う、ダイナミックなフィードバック・ループを形成しているのです。
この二つの機能、すなわち現実を理解しようとする「認識機能」と、現実を変化させようとする「操作機能」が、互いを追いかけるように作用し合うことで、市場は均衡点から大きく離れ、自己強化的なブームと、その後の自己崩壊的なバスト(暴落)を繰り返す、とソロスは主張します。この思想の根源には、彼の師である哲学者カール・ポパーが提唱した「可謬性(Fallibility)」、つまり人間の知識や認識は常に不完全で、間違いを犯しうるという考え方があります [2]。私たちの不完全な認識が現実を動かし、動かされた現実がまた私たちの認識を形成する。この終わりのない循環こそが、再帰性の本質です。ソロスは、自身の著書『ソロスの錬金術』の中で、この理論を詳細に展開しました [3]。
長所・短所の解説、利益例・損失例の紹介
長所と収益事例
再帰性の理論がもたらす最大の長所は、伝統的な経済学では説明が困難な、市場の極端な現象、特にバブルとその崩壊を理解するための、強力な概念的フレームワークを提供する点にあります。
標準的な経済モデルでは、バブルのような現象は、しばしば外部からの予期せぬショックや、非合理的な投資家の存在によって説明されます。しかし、再帰性の理論は、バブルが市場の内部で、参加者の認識と現実との間のフィードバック・ループを通じて自己生成される、内生的なプロセスであることを示唆します。ノーベル経済学賞受賞者であるロバート・シラーの研究は、この再帰的なプロセスを裏付けています。彼の分析によれば、資産価格の上昇がメディアで報じられ、それが新たな投資家を惹きつけ、その買いがさらなる価格上昇を生むという「社会的フィードバック・ループ」が、バブルを増幅させる主要なメカニズムであることが示されています [4]。これは、ソロスが言うところの、自己強化的なブームの典型例です。
この理論の explanatory power(説明能力)は、2008年の世界金融危機のような、より複雑な事象の分析においても発揮されます。この危機は、単一の原因ではなく、複数の再帰的なプロセスが連鎖した結果と理解できます。例えば、住宅価格の上昇という当初のトレンドが、住宅ローン担保証券(MBS)の信用格付けに対する過信を生み、その高い格付けがさらなる資金流入を招いて住宅価格を押し上げる、という正のフィードバック。そして、一度住宅価格が下落に転じると、MBSの格下げが金融機関のバランスシートを毀損し、それが信用収縮を引き起こして、さらに住宅価格を下落させるという負のフィードバックです。このような危機の連鎖的なメカニズムは、再帰性の概念を用いることで、より明確に理解することができます [5]。
短所と弱み、リスク
一方で、ソロス自身が認めているように、再帰性の理論は万能ではなく、その応用には極めて大きな困難とリスクが伴います。
最大の弱みは、その予測能力の欠如です。再帰性の理論は、市場がどのように均衡から逸脱し、自己強化的なプロセスが生まれうるかという「パターン」を認識するためのフレームワークですが、そのプロセスがいつ始まり、いつ終わるのかを正確に予測する科学的な法則ではありません。ソロスは、市場の歴史は常にユニークであり、過去のパターンが未来を保証するものではないと強調します。この理論は、トレーディングにおける「地図」であって、次の角を曲がるタイミングを教えてくれる「GPS」ではないのです。
この予測の難しさは、バブルを特定し、それに対応しようとする中央銀行のような政策当局の行動にも見て取れます。ある研究によれば、たとえ当局が資産価格のミスプライシング(バブル)を認識していたとしても、その崩壊時期を正確に予測することは困難であり、金融引き締めのような政策対応が、かえって経済に悪影響を与えるリスクもあるため、最適な行動方針を決定することは極めて難しいとされています [6]。これは、再帰的なプロセスを認識することと、それを利用して利益を上げる(あるいは害を避ける)こととの間には、大きなギャップがあることを示唆しています。
この理論を応用する上での最大のリスクは、自己強化的なトレンドに対して、あまりに早く逆張りをしてしまうことです。「市場は、あなたが支払い能力を維持できる期間よりも長く、非合理的なままでいられる」という有名な格言の通り、再帰的なバブルは、理論的な適正価格を遥かに超えて、長期間にわたって拡大し続ける可能性があります。その過程でトレンドに逆らって空売りを仕掛ければ、投資家は再起不能なほどの損失を被る危険性があるのです。
非対称性と摩擦の視点から
ポジティブファクター:Asymmetry
ジョージ・ソロスの再帰性の理論は、市場が本質的に「非対称」な振る舞いをすることを見抜いた、画期的な視点を提供します。
第一に、再帰性が引き起こすブームとバストのプロセスそのものが、時間的に非対称です。市場におけるブームの形成は、しばしば長い時間をかけて、徐々に参加者の信念が強化されていく緩やかなプロセスです。一方で、一度信頼が崩壊した後のバスト(暴落)は、パニック的な売りが売りを呼ぶ連鎖反応を引き起こし、極めて短期間で暴力的に進行する傾向があります。市場が「階段を上り、エレベーターで下りる」と形容される、この時間的な非対称性は、再帰的なフィードバック・ループが持つ典型的な特徴です。
第二に、この理論は、極めて非対称なペイオフを持つ取引機会の源泉となります。再帰的なプロセスが進行している間、市場は一方向への強いトレンドを形成します。そして、そのプロセスが転換点(Tipping Point)を迎え、フィードバック・ループが逆回転を始めると、価格は劇的に反転します。この転換点を正確に見極めることは至難の業ですが、もし成功すれば、その取引は極めて大きな利益をもたらす可能性があります。1992年にソロスが英ポンドを空売りした伝説的な取引は、英国政府が為替レートを維持できないというファンダメンタルズと、市場参加者の信念との間の再帰的な関係性が崩壊する転換点を突いたものであり、そのペイオフは歴史上でも類を見ないほど非対称なものでした。
ネガティブファクター:Friction
再帰性の理論がこれほどまでに市場の本質を捉えているにもかかわらず、なぜ多くの投資家がこの理論を実践できないのでしょうか。その背景には、人間の認知能力や市場の構造に根差した、強力な「摩擦」が存在します。
最大の摩擦は、認知的な摩擦です。人間の脳は、直線的な因果関係を理解するのは得意ですが、再帰性のような複雑なフィードバック・ループを直感的に把握することは非常に苦手です。そのため、多くの市場参加者は、バブルが形成されている最中であっても、それを「ファンダメンタルズに基づいた、合理的な価格上昇だ」と正当化しようとします。この、非線形なプロセスを理解できないという認知的な摩擦こそが、そもそも再帰的なブームが抑制されずに、極端なレベルまで進行することを許してしまう根本的な原因です。
第二に、制度的な摩擦、特に「裁定取引の限界」です。たとえ一部の合理的な投資家が、市場が再帰的なプロセスによって過熱していることに気づいたとしても、その価格の歪みを是正する行動(例えば、空売り)には、多大なリスクとコストが伴います。空売りには株式の借入コストがかかり、また、バブルが継続している間は含み損が拡大し続けるため、資金が尽きてしまう危険性もあります。このような現実世界の摩擦が、たとえ価格が非合理的であったとしても、プロの投資家による裁定取引を不完全にし、市場の非効率性が長期間にわたって存続することを可能にしているのです [6]。
最後に、再帰性の理論そのものが持つ「曖昧さ」という摩擦です。この理論は、市場のパターンを認識するための哲学的な「レンズ」であり、具体的な売買シグナルを生成する数学的な「アルゴリズム」ではありません。いつフィードバック・ループが始まり、どの時点でそれが崩壊するのか。そこに明確な答えはなく、最終的にはソロス自身の言うところの、経験に裏打ちされた「動物的本能」に頼らざるを得ない部分が残ります。この科学的な厳密性の欠如が、多くの定量的な投資家がこの理論を敬遠する理由であり、その実践を極めて属人的なものにしている摩擦と言えるでしょう。
総括
この記事では、伝説的な投資家ジョージ・ソロスの哲学の中核をなす「再帰性」の理論について、その概念と実践的な意味合いを分析しました。
- 再帰性の理論は、市場参加者の不完全な認識(思考)と、市場の現実(ファンダメンタルズ)とが、互いに影響を与え合う双方向のフィードバック・ループを形成している、という考え方です。
- この理論は、市場が均衡状態にあるとする伝統的な経済学とは対立し、バブルやクラッシュといった市場の極端な現象を、内生的なプロセスとして説明する強力なフレームワークを提供します。
- 長所として、その説明能力の高さが挙げられます。社会的フィードバック・ループによるバブル形成や、金融危機における負の連鎖は、再帰性の概念によって明確に理解できます。
- 短所として、その予測能力の欠如と応用の難しさが挙げられます。再帰的なプロセスがいつ転換点を迎えるかを正確に予測することは極めて困難であり、トレンドへの早すぎる逆張りは壊滅的な損失を招くリスクがあります。
- 非対称性の観点からは、再帰的なプロセスは時間的にもペイオフの観点からも非対称な振る舞いをし、その転換点を捉えることは、極めて非対称なリターン機会を生み出します。
- 摩擦としては、人間がフィードバック・ループを理解しにくいという「認知的な摩擦」や、裁定取引を困難にする「制度的な摩擦」が、再帰的な非効率性が市場に存続する原因となっています。
用語集
ジョージ・ソロス ハンガリー出身の米国の投資家、慈善家。「イングランド銀行を潰した男」として知られ、再帰性の理論を基にマクロ経済の大きなトレンドに賭けるグローバル・マクロ戦略で驚異的な成功を収めた。
再帰性(Reflexivity) 市場参加者の思考(認識)と、市場の現実(ファンダメンタルズ)が、互いに影響を及ぼし合う、双方向のフィードバック・ループの関係にあるという、ソロスが提唱した理論。
可謬性(Fallibility) 哲学者カール・ポパーの概念で、人間が持つ知識や信念は、常に不完全で間違いを犯す可能性があるという考え方。ソロスによれば、この可謬性があるからこそ、人々の認識が現実を動かし、再帰的なプロセスが生まれる。
フィードバック・ループ あるシステムの出力が、入力としてそのシステム自身にフィードバックされ、その後のシステムの振る舞いに影響を与える循環的なプロセスのこと。価格上昇がさらなる買いを呼ぶような「正のフィードバック」と、価格下落がさらなる売りを呼ぶ「負のフィードバック」がある。
ブーム・バスト・サイクル 再帰的なプロセスによって、市場が自己強化的な上昇(ブーム)と、その後の自己崩壊的な下落(バスト)を繰り返す循環のこと。
効率的市場仮説(EMH) 市場価格は利用可能な全ての情報を即座に織り込んでいるため、継続的に市場を上回ることはできないとする理論。再帰性の理論とは対立する考え方。
均衡(Equilibrium) 経済学において、需要と供給などの対立する力が釣り合い、システムが安定している状態。再帰性の理論は、市場が常に均衡状態にあるという考え方を否定する。
裁定取引の限界 現実の市場には、取引コストや空売り制約といった様々な「摩擦」が存在するため、たとえ価格に歪みがあっても、プロの投資家による裁定取引がそれを完全に解消できないという考え方。
グローバル・マクロ戦略 金利、為替、株価指数、コモディティなど、国や資産クラスをまたいで、世界経済全体の大きなトレンド(マクロ経済)を分析し、投資を行うヘッジファンドの戦略。
空売り(ショート) 保有していない株式などを証券会社から借りて市場で売却し、将来価格が下落した時点で買い戻して返済し、その差額を利益として得る取引。
参考文献一覧
[1] Fama, E. F. (1970). Efficient capital markets: A review of theory and empirical work. The Journal of Finance, 25(2), 383-417.
https://doi.org/10.2307/2325486
[2] Popper, K. R. (1959). The Logic of Scientific Discovery. Hutchinson.
※書籍です。
[3] Soros, G. (1987). The Alchemy of Finance. Simon & Schuster.
※書籍です。
[4] Shiller, R. J. (2000). Irrational Exuberance. Princeton University Press.
※書籍です。
[5] Brunnermeier, M. K. (2009). Deciphering the liquidity and credit crunch 2007–2008. Journal of Economic Perspectives, 23(1), 77-100.
https://doi.org/10.1257/jep.23.1.77
[6] Shleifer, A., & Vishny, R. W. (1997). The Limits of Arbitrage. The Journal of Finance, 52(1), 35-55.
https://doi.org/10.2307/2329555
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