サンクコストは、一般的に「埋没費用」と訳され、すでに支払ってしまい、どのような選択をしても回収できない費用のことを指します。これはビジネスや日常生活のあらゆる場面で発生する概念ですが、特に先の読めない未来に対して判断を下す投資の世界では、サンクコストが意思決定に与える影響は非常に大きくなります。
一般的な意味でのサンクコストは、例えば「せっかく高いお金を払って映画館に入ったのだから、つまらなくても最後まで観る」といった状況に当てはまります。この場合、すでに支払った映画のチケット代がサンクコストです。映画を途中で出ようが最後まで観ようが、チケット代は戻ってきません。合理的に考えれば、つまらない映画を観続ける時間は無駄であり、その時間をもっと有意義なことに使うべきです。しかし、多くの人は「支払った分を取り返したい」という心理から、不合理な選択をしてしまいます。
投資の世界におけるサンクコストもこれと全く同じ構造です。例えば、ある企業の株価が購入時から大きく下落したとします。この時、投資家が「ここまで多額の資金を投じたのだから、今さら売ることはできない。株価が回復するまで持ち続けよう」と考えるなら、それはサンクコストの罠に陥っています。購入に要した過去の資金は、もはや回収不可能なサンクコストです。未来の投資判断は、これからその株価が上がるか下がるかの期待値のみで判断されるべきであり、過去にいくら投資したかは本来、全く関係のない情報なのです。
このように、サンクコストは人間の不合理な心理に根差した意思決定の歪みであり、多くの研究がその存在を裏付けています。ArkesとBlumerの研究(1985)では、人々が過去の投資を無駄にしたくないという理由だけで、不合理な選択を続ける傾向が示されています [1]。当メディアは、こうした学術的な知見を基に、サンクコストという概念を深く掘り下げ、投資家が合理的な判断を下すための一助となることを目指します。
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サンクコストが引き起こす不合理な投資判断のメカニズム
投資の世界においてサンクコストの概念を理解することは、致命的な損失を避ける上で極めて重要です。この心理的な罠を知らないと、投資家は損失をさらに拡大させる不合理な行動に駆り立てられる危険があります。ここでは、サンクコストがどのようにして利益の機会を奪い、損失を招くのかを具体的な事例と共に解説します。
なぜ損失が出ているのに投資を続けてしまうのか
サンクコスト効果は、しばしば「コンコルド効果」とも呼ばれます。これは、超音速旅客機コンコルドの開発プロジェクトが、商業的に失敗することが明らかになった後も、それまでの莫大な投資を惜しんで中止できなかった事例に由来します。投資の世界でも同様の現象が頻繁に起こります。
Stawの研究(1976)は、一度下した決定に対して、たとえ否定的な結果が出ても、そのコミットメントをエスカレートさせてしまう人間の傾向を「泥沼にはまる」と表現しました [2]。株価が下落している銘柄に対して、さらに資金を投じて買い増す、いわゆる「ナンピン買い」は、この典型例です。投資家は「これだけ損をしたのだから、平均取得単価を下げて、少しでも株価が戻れば損失を取り返せる」と考えがちです。しかし、これは過去の損失(サンクコスト)に囚われた不合理な判断です。その銘柄に将来性がないのであれば、追加投資はまさに「悪い金の上にさらに悪い金を投げる」行為であり、損失を拡大させるだけです [3]。
サンクコストを断ち切ることで得られる利益
サンクコストの罠から逃れることで、投資家は二つの大きな利益を得ることができます。一つは、さらなる損失の拡大を防ぐことです。将来性のない投資から早期に撤退、つまり「損切り」をすることで、被害を最小限に食い止められます。
もう一つの利益は、機会費用を無駄にしないことです。機会費用とは、ある選択をしたことで失われた、他の選択肢から得られたはずの利益を指します。将来性のない銘柄に資金を塩漬けにしておくことは、その資金をより成長が見込める他の有望な銘柄に投資する機会を失っていることを意味します。Thalerの指摘するように、多くの人々はこうした機会費用を無視しがちです [5]。サンクコストの呪縛を断ち切り、損失が出ている資産を売却して得た資金を新たな投資に振り向けることで、ポートフォリオ全体の収益性を改善させることができるのです。
サンクコスト効果は人間特有の不合理性か
サンクコストに囚われてしまう傾向は、果たして人間だけの特徴なのでしょうか。この問いを探ることは、私たちがなぜこのような不合理な判断を下してしまうのか、その根源を理解する上で非常に興味深い視点を提供します。
ArkesとAytonの研究(1999)では、人間と他の動物の行動を比較することで、サンクコスト効果について考察しています。この研究によれば、サンクコストに固執する傾向は、人間において特に強く見られる可能性があることが示唆されています [4]。動物は、ある行動が利益をもたらさなくなれば、過去にどれだけの労力を費やしたかに関わらず、その行動を比較的簡単に見限ることができます。
一方で人間は、自らの過去の決定を正当化したいという強い欲求や、「もったいない」という感情、そして計画を途中で放棄することへの社会的なプレッシャーなど、複雑な心理的要因によってサンクコストに縛られます。これは、人間が持つ高度な認知能力や自己意識が、かえって不合理な経済判断を引き起こす一因となっていることを示しており、投資家が自らの心理的な偏りを自覚することの重要性を浮き彫りにしています。
マーケットに潜む非対称性と摩擦の視点から見たサンクコスト
当メディア「The Asymmetry Signal」の核心的なテーマである「非対称性」と「摩擦」の観点からサンクコストを分析すると、この心理的バイアスがマーケットにどのような影響を与えているか、より深く理解することができます。
ポジティブファクター:認知の非対称性が生む収益機会
サンクコストの概念を理解し、その罠を克服している合理的な投資家と、サンクコストに囚われている不合理な投資家の間には、一種の「認知の非対称性」が存在します。この認知の差は、収益機会の源泉となり得ます。
例えば、ある銘柄に悪材料が出て株価が下落したとします。サンクコストに囚われた投資家は、過去の投資額に固執し、損切りができずに保有を続けるか、あるいは不合理なナンピン買いに走るかもしれません。彼らのこうした非合理的な行動が、株価を本来あるべき価値以上に下押しする可能性があります。合理的な投資家は、この過剰な下落をチャンスと捉え、サンクコストを一切考慮せずに、その銘柄の将来的な価値だけを冷静に分析します。そして、もし株価が本質的価値よりも割安だと判断すれば、安値で仕込むことで、将来的に大きなリターンを得ることができるかもしれません。これは、他者の不合理性を利用した、非対称な収益チャンスと言えるでしょう。
ネガティブファクター:合理的な判断を妨げる心理的な摩擦
投資における「摩擦」とは、手数料やスプレッドといった直接的なコストだけでなく、合理的な意思決定を阻害するあらゆる要因を含みます。その意味で、サンクコストは投資家が直面する最も厄介な心理的「摩擦」の一つです。
過去に支払ったコストという、本来は未来の意思決定に関係のないはずの情報が、思考のノイズとなり、将来の期待値に基づくクリアな判断を妨げます。この摩擦は、損切りを遅らせ、機会費用を増大させ、結果としてポートフォリオのパフォーマンスを悪化させるのです。この心理的な摩擦をいかに検出し、取り除いていくかという試みは、投資家が長期的に市場で生き残るための重要な課題です。
サンクコストの知識を投資に活かすための具体的なアクション
サンクコストの理論を理解するだけでは不十分です。それを実際の投資行動に反映させてこそ、真の価値が生まれます。ここでは、サンクコストの罠を回避するための具体的なアクションプランを提案します。
すぐできること
まず、現在保有している金融資産のリストを作成し、一つ一つの銘柄に対して、次の質問を自問自答してみてください。「もし今日、この銘柄を一切保有していなかったとして、現在の価格で新たに投資するだろうか?」
この質問に対する答えが「ノー」であれば、なぜその銘柄を保有し続けているのかを真剣に考える必要があります。その理由が「購入した時よりも価格が下がっているから」「損を確定させたくないから」といった、過去のコストに関連するものであれば、あなたはサンクコストの罠に陥っている可能性が非常に高いです。この簡単な問いかけは、過去の決定から自らを切り離し、ゼロベースで資産の将来性を見直すための強力なツールとなります。
長期的に取り組むこと
感情的な判断を排し、規律ある投資を実践するためには、長期的な視点での仕組み作りが不可欠です。具体的には、投資を実行する「前」に、明確な売却ルールを設定しておくことです。
例えば、「購入価格から10%下落したら、いかなる理由があっても機械的に売却する」といった損切りルールや、「株価が目標額に達したら利益を確定する」といった利食いルールをあらかじめ決めておきます。そして、そのルールを感情を挟まずに実行することを徹底します。このようなルールベースの投資アプローチは、サンクコストのような心理的バイアスが意思決定に介入する余地を減らし、長期的に一貫性のある投資行動を維持する上で大きな助けとなります。
総括
この記事では、投資判断を歪める心理的な罠であるサンクコストについて、その本質から具体的な対策までを解説しました。以下に重要なポイントをまとめます。
- サンクコストとは、すでに支払ってしまい回収不可能な費用のことであり、未来の意思決定に含めるべきではない。
- 多くの投資家は「投じた資金を取り返したい」という心理から、損失が出ている投資を継続してしまう不合理な判断を下しがちである。
- サンクコストに囚われると、損切りが遅れて損失が拡大し、より有望な投資機会を逃す(機会費用)という二重のデメリットが生じる。
- この心理的バイアスを克服している投資家は、他者の不合理な行動によって生じた市場の歪みを利用して、収益機会を見出すことができる可能性がある。
- 対策として、「もし今、保有していなかったら買うか?」と自問することや、事前に売却ルールを決めておくことが有効である。
用語集
- 期待値: ある試行を行ったときに、結果として得られる数値の平均値。投資においては、将来得られるリターンの見込み額を指す。
- 機会費用: ある選択肢を実行するために諦めた、他の選択肢から得られたはずの最大の利益。
- 損切り: 保有している金融資産の価格が下落し、損失が出ている状態で売却して損失を確定させること。さらなる価格下落による損失拡大を防ぐ目的で行われる。
- ポートフォリオ: 投資家が保有する、株式、債券、不動産などの金融資産の組み合わせ、またその内容。
- バイアス: 思考や判断の偏り。心理学や行動経済学では、人間が必ずしも合理的に判断するとは限らない原因となる、特定の思考パターンを指す。
参考文献一覧
[1] Arkes, H. R., & Blumer, C. (1985). The Psychology of Sunk Cost. Organizational Behavior and Human Decision Processes, 35(1), 124-140.
[2] Staw, B. M. (1976). Knee-Deep in the Big Muddy: A Study of Escalating Commitment to a Chosen Course of Action. Organizational Behavior and Human Performance, 16(1), 27-44.
[3] Garland, H. (1990). Throwing Good Money After Bad: The Effect of Sunk Costs on the Decision to Escalate Commitment. Journal of Applied Psychology, 75(6), 728-731.
[4] Arkes, H. R., & Ayton, P. (1999). The Sunk Cost and Concorde Effects: Are Humans Less Rational Than Lower Animals? Psychological Bulletin, 125(5), 591-600.
[5] Thaler, R. (1980). Toward a Positive Theory of Consumer Choice. Journal of Economic Behavior & Organization, 1(1), 39-60.


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